永世中立国

   

永世中立国とは、国家組織自らが政治的・軍事的に中立であることを宣言した国家のことである。現在永世中立国であると認識されている国家は8か国存在する。

ただし、国家自らが「中立」を宣言したとしても、実質的に中立では無い政策をとっていたり、周辺他国との状況から中立であることを許されなかったり、どの国からも中立であると認識されていない国も存在する。

本項ではそうした国々も含め、それらの国が永世中立を宣言した経緯とともに記述する。

 国際的な承認のある永世中立国

 スイス連邦

地域 ヨーロッパ
宣言年(承認年) 1815年
承認された国または条約 ウィーン会議とその出席国
 概要

スイス連邦は、1815年にナポレオン戦争の事後処理を欧州各国で決定すべく開かれたウィーン会議の席上で、出席国によって「永世中立国La neutralité permanente」であることを認められた。これを国際的に認められたのはスイスが史上初である。
その後、スイスはヨーロッパという近代史的には戦争の絶えなかった中にあって、中立であることを貫いてきた。これは、スイスの地政学上における立ち位置と、スイス国軍の存在(イメージ的なものも含む)、国際的な経済上のスタンスによって守られてきた稀有な例と言ってよい。

ただし、スイス連邦は今まで原始的な中立を守るために国際連合にも加盟してこなかったが、冷戦の終結や国連の国際関係上の現在的な立ち位置を鑑み、2002年の国民投票の結果、国連に加盟することとなった。

 歴史的経緯

スイスが永世中立を承認されたのは、ウィーン会議にて突然提唱されたためではないことを認識する必要がある。スイスが神聖ローマ帝国から国際的に独立を果たしたのは1648年のウェストファリア条約によるものであったが、これ以前にスイス連邦の端緒であるハプスブルク家による支配に対抗した5州による13世紀の原初同盟、さらにこれに三州を加えた14世紀の八州同盟がスイスの初期の形である。スイスは地理上では三方を山脈とライン川、そしてレマン湖等の大きな湖によって囲まれた地域であり、元来他国による侵入の難しい地域であるが、15世紀のブルゴーニュ戦争時にブルゴーニュ公の侵入を八州同盟によって撃退したことが、スイスの軍事的ポジションを国際的に認知させることに役立った。
その後、15世紀に起きたハプスブルク家とイタリアをめぐる勢力の間で断続的に行われたイタリア戦争の間にスイスは侵略を受けるが、これをことごとく撃退し、さらにルネサンス期にイタリア戦争に積極的に参戦し、ルネサンスの礎を作った一人といわれる教皇ユリウス二世の下で、初めてスイス人がバチカンの傭兵として採用されることになった。17世紀に入ると、欧州全土を巻き込んだ三十年戦争では、スイスは地政学的な理由もあって直接的な戦場にはならなかったが、特にスウェーデン王グスタフ二世の下で強力な傭兵軍団を組織してスウェーデンは積極的にスイスを庇護した。スイスはこの間に初めて国際的に中立であることを宣言した。中立を宣言した主な理由として考えられるのは、スイス国内を通過するイタリアとオランダを結ぶスペイン回廊の存在があると思われる。スイスは中立を宣言するにあたって、国防軍を組織し国境防衛にあたることとなった。

三十年戦争が終了するとウェストファリア条約によって国際的に独立国として認められたスイスは17世紀後半、再度の欧州全土への脅威となったフランス革命軍によって連邦政府へ干渉され一度は政府が解体されて共和国体制となった(ただし、これはすぐに連邦体制へ戻る)。

そしてナポレオン戦争が終息すると、上記の通り反動主義的な結果となったウィーン会議の決定によってスイスは従前の中立的な立ち位置を取り戻し「永世中立国」を国際的に承認されることになった。

 トルクメニスタン

地域 中央アジア
宣言年(承認年) 1995年
承認された国または条約 国際連合
 概要

1991年にソビエト連邦の解体によって独立国として誕生したトルクメニスタンは、カスピ海東岸にあってイラン、アフガニスタン、ウズベキスタンの三国に囲まれた内陸国である。そして天然ガスや石油を豊富に埋蔵しており、中央アジアにおいてはカザフに次いで高い経済規模を持っており、国民の経済水準も高く安定した経済運営を行える国家であるといえる。

トルクメニスタンが永世中立を宣言したのは、当時大統領だったニヤゾフ(その後「終身大統領」を名乗って独裁化する)によって1995年の国連の会議上においてであり、会議ではこれを承認して、トルクメニスタンは国際的に承認された永世中立国となった。

 地政学上の問題と将来

トルクメニスタンが永世中立を標榜した理由は、ひとえにロシアからの干渉を逃れるためと考えてよい。豊富な天然資源をどのように外交上のカードとして使用するかはトルクメニスタンが将来的にわたってどのような国際的地位を確立できるか、そして経済上の安定をもたらすことができるかにかかっている。またアフガニスタンと同様に、ロシアとアメリカの陣営が交差する要衝の地点に存在するため、東西陣営のどちらにも属さずに経済的繁栄を保っていくことができると考えられる。

現在トルクメニスタンは、アメリカ、EU、中国、ロシアらのどの陣営とも天然資源をめぐって外交交渉に明け暮れている。さらに、国内が独裁的体制であるにも関わらず国民が安定的に生活できるのは永世中立という旗の下に経済的安定を保てているためである。

 実質的に国際的に認識されている永世中立国

 リヒテンシュタイン公国

地域 ヨーロッパ
宣言年(承認年) 1867年
承認された国または条約 (事実上、普墺戦争戦後処理関係国より承認)
 概要と経緯

リヒテンシュタイン公国は、ヨーロッパで最後に残った王政国家である。リヒテンシュタインは知られているとおり、いわゆるミニ国家の一つであり、その国家運営はリヒテンシュタイン銀行をはじめとしたリヒテンシュタイン家の財産とそれをよりどころにした経済活動、およびタックス・ヘイブンとしての外貨流入によって行われているといって過言ではない。

そして重要な点として、普墺戦争時に敗戦国となったオーストリア帝国側について参戦したため敗戦処理として軍備削減を求められ、軍備そのものを廃止して永世中立を宣言した、という背景がある。現在これによってリヒテンシュタインは軍事力はなく、100人体制程度の警察力を持つのみである。

 歴史とスイスとの関係

リヒテンシュタイン公国は、18世紀に神聖ローマ帝国内で一諸侯領として発足し、その後神聖ローマ帝国崩壊、ライン同盟、ナポレオン戦争終結、普墺戦争という歴史を経て、積極的にそれを目指したわけでもないが言わば成行き的に独立国家となった。この間にリヒテンシュタイン家では小さい国土を守備するために干渉を受けた側に対して軍事力を提供するものの、そもそも零細勢力であることも逆の意味で功を奏して、リヒテンシュタイン領の領民には大きな軍事的損害を出すことなく切り抜けることができた。リヒテンシュタイン家はそもそも同国領以外のヨーロッパ各地に多数の領土と財産があり、ほぼ同国領をこれで生まれる利益によって運営していくことができるという背景もある(現在においてもそれは同様である)。

1867年に普墺戦争の事後処理に乗じて元々負担であった軍事力を放棄し、先だって永世中立を認められていたスイスと領土を接し外交的、経済的に依存関係を強め、永世中立の立場についても国家成立と同様に国際的に認めさせることができた。スイスは後に起きた一次大戦において、両陣営からの経済封鎖によって危機に陥ったリヒテンシュタインをほぼ自国一国だけで救済した。

現在はスイスに外交権を委託、国際的に高まった経済上の立場を利用し、さらに地政学的には重要地点とは言えない位置を生かして永世中立を保っているといえる。

 宣言のみの永世中立国

 カンボジア王国

地域 東南アジア
宣言年(承認年) 1993年
承認された国または条約 (93年発効カンボジア王国憲法にて宣言)
 概要

1991年のパリ和平条約で、長い内戦に終止符を打って再出発したカンボジア王国では、憲法第53条によって非同盟、永世中立の政策をとると定めている。なおカンボジアの場合、永世中立を国際的に宣言したわけでもなく、国際的な承認を取ろうとしたわけでもない。憲法によって謳うことにより、カンボジアとしての外交上、軍事上の姿勢を示した、と見ることができる。

 内戦の歴史と不干渉宣言

カンボジアは第二次大戦後1953年に宗主国であるフランスから独立したが、その直後に南北ベトナムの干渉による軍事侵攻とアメリカの傀儡政権であるロンノル政権、さらに後に立ったポルポトのクメールルージュ、ヘン・サムリン政権、シアヌーク王家の亡命政権など多数の勢力が入り乱れて、ベトナムとともに世界史上でも稀有な凄惨な内戦の道を歩むこととなった。89年ベトナム軍がようやく撤退し、91年のパリ和平協定によってシアヌーク家が王権を復活して立憲国家として再出発することができた。

こうした内戦の歴史と、隣国であるベトナムの国情や、中国、アメリカ、そして歴史的にはフランスから干渉を受けてきた立場を鑑みて、自身が他国への不干渉を基盤とすることによって平和的な立場を築こうとしたことが見て取れる。

なおカンボジアは93年の宣言以来、非同盟を貫き軍事的外交関係はどの国とも結んでいない。

 国際的に承認されているが実質的に中立でない国

 オーストリア共和国

地域 ヨーロッパ
宣言年(承認年) 1955年
承認された国または条約 オーストリア国家条約
 概要

第二次大戦時、ナチスドイツに併合されていたオーストリアは、敗戦国として終戦を迎えた。ドイツと同様に連合国側に分割統治されていたが、1955年にオーストリア国家条約を締結するに至って再び独立国家として国際承認を得ることができた。この条約内容に盛り込まれていた条項が、ドイツとの合併の禁止、核兵器等の大量殺戮兵器所持禁止、そして永世中立の宣言である。条約を批准した5か月後に制定された「永世中立に関する連邦憲法法規」を宣言し、これを以て国連加盟国家として国際社会に再び迎えられた。

 歴史的経緯とEU加盟後

オーストリアが永世中立国家を内面的に標榜したわけではないことが上記の件から見て取れる。オーストリアは一次大戦までは王政国家であり、国際的には強大な軍事力と影響力を持つ国家だった。ところが一次大戦に敗戦すると、国内で民族自決による分割独立が起こり広大な領土が急激に縮小し、さらに直後に革命が勃発、民主化後に内乱やクーデターが頻発し、それに乗じてナチスドイツが侵入して合併されてしまった。
オーストリア自身がこの間に自国内での統治力や外交能力を著しく失ってしまい、ドイツに隷属化する状態で二次大戦にも参戦して、またしても敗戦することによって満身創痍となった国家は連合国のほぼ言いなりの状態となったとみることができる。

永世中立宣言から40年を経てオーストリアはそれまで加盟していたEFTAからEUへ鞍替えした。EFTAは経済連合であるが、ECを発展解消したEUは安全保障分野にもその影響力が及んでおり、EUに加盟することはすなわち軍事的にEU陣営に与することを意味する。これによって事実上のオーストリアの永世中立は有名無実化したと考えてよい。またNATOへは本格的に加盟はしていないが、二大政党の一つである国民党を中心にNATO加盟論を否定しない向きも多い。オーストリアの永世中立の立場は、大きく国内政治の状況によって揺れがあると考えられ、大きく分けて二大政党のうち社会民主党が中立維持、国民党は中立堅持にはこだわらないという立場であると考えてよい。現在の国内政治状況が第三勢力である極右の台頭があり、二大政党がこれを阻止するために大連立政権を組むなどで対抗し、その中で永世中立の立ち位置が微妙になっていると解釈できる。

 ラオス人民民主共和国

地域 東南アジア
宣言年(承認年) 1961年
承認された国または条約 ジュネーブ国際会議
 概要と経緯

カンボジア同様に戦前からフランスに占領されていたラオスは、第二次大戦後の対仏ゲリラ戦などによって1953年に、王政を復帰させる形でラオス王国として独立を勝ち取った。ところが、その後カンボジア、ベトナムと同様に長い内戦に突入することになる。

永世中立宣言が採択されたジュネーブ国際会議は、60年にコンレー大尉によるクーデターで反政府軍として活動していたNLHSと左派が連立政府を組織し、これに対しアメリカが協力を拒否してタイとともに経済封鎖をし、これに困窮した政府がソ連に救援を依頼して、この三者によって国内が混乱している際に停戦協議として行われていた会議である。この席上で、「ラオス王国の中立に関する宣言」が採択されて、ラオスはこの条項を守ることを協議上国際的に約束して政府の再組織化を図り、1963年にはこれを追認する形で王国政府も中立を宣言した。

 現状

現状のラオスは上記の中立宣言は事実上破棄している。
政府による宣言直後に政権中枢にあった中立派のケッサナー大佐とキニム外相が暗殺されて、政権は主犯であるプーマ以外すべてを右派で占める状態で再組閣されてラオスの中立的立場は事実上放棄された。その後、NLHSと中立派が合同して人民解放軍を組織し、1972年に起きた右派に対する大規模な住民デモによって王政を打倒し、人民解放軍が社会主義国家としてのラオス人民民主共和国を成立させた。ラオスはその後、経済封鎖等国際的制裁を続けるアメリカに対抗するため共産圏陣営に身を置き、ソ連崩壊後はASEANへ加盟する一方で中国との関係を強化している。

現状は東南アジア情勢が安定しているため、改正憲法の条文にも対外的には不干渉を旨とするとある通り、中立的環境が実現している。

 宣言しているが国際的承認もなく実質的にも中立でない国

 モルドバ共和国

地域 ヨーロッパ
宣言年(承認年) 1994年
承認された国または条約 (1994年発効モルドバ憲法にて宣言)
 概要と歴史的経緯

モルドバ共和国は、ソ連崩壊時に連邦構成国の一国として存在していた国がそのまま91年に独立宣言して今に至る国である。モルドバ地方は歴史上、ルーマニアを構成する一地域であり、20世紀初頭ルーマニアの宗主国であったオスマン・トルコが露土戦争での賠償としてロシアに対しルーマニア東部を割譲した際にこの国の領域が充てられた(ベッサラビアと称する)ことによって現在のモルドバの領域が作り上げられた。この歴史上の経緯から、ソ連から独立する際に親ルーマニアを標榜し、ルーマニアへの合併も一部望まれたが、国民投票の結果圧倒的多数で独立国として自立することを決定し、94年に定められた憲法によって永世中立が宣言された。

 内戦下の現状

モルドバがなぜ永世中立を宣言することとしたか詳細は不明としか言えない。ただし歴史的経緯と、独立当時隣国であるロシア、ウクライナ、ルーマニアいずれもが不安定である時期であり、地政学上でもヨーロッパと中東および中央アジアを経由する要衝にあることから国際的に微妙な位置にあることが大きく関係しているものと思われる。

現在のモルドバは中立とは言えない位置にある。まず、国内ではソ連時代に同国内に移住していたスラブ系民族を中心としたドニエストル川東岸地域がモルドバからの独立を宣言し沿ドニエストル共和国として事実上戦争状態にある。このため、これを支援するロシアとは微妙な関係にあり、軍事上アメリカを中心とした西側諸国からの援助を希望してイラク戦争にも協力し、派兵も行っている。将来的にはEUへの加盟(中立的な立場は維持するとしている)と、ルーマニアへの合併を望んでいると考えられている。なお、モルドバは地政学的には要衝にあるものの、資源は皆無に等しく、大きな特産物も持たないヨーロッパ最貧国である。そのため、陸上交通による国際的経済活動および軍事行動が相対的に価値低下した現在、他国から侵入される可能性が(現状としては)低い国であることも確かである。

 コスタリカ共和国

地域 中央アメリカ
宣言年(承認年) 1983年
承認された国または条約 (「コスタリカの永世的、積極的、非武装的中立に関する大統領宣言」にて宣言)
 概要と経緯

コスタリカ共和国は1839年に中米連邦が崩壊すると他州同様に独立したが、その後はやはり中米他国同様に内戦とアメリカの干渉による不安定な状況が続いた。特に二次大戦前からバナナやコーヒーによるモノカルチャー経済が続き、これが世界恐慌によって破たんすると一層、内戦と軍事クーデターが繰り返し起きるようになり戦後48年までこの状況が続いた。48年に選挙結果が不正であることを理由にホセ・フィゲーレス・フレールが軍事クーデターを起こし、この時にクーデターと内戦の最大の原因となっていた国軍の廃止を憲法で禁止することとした。さらに、翌年の「コスタリカの永世的、積極的、非武装的中立に関する大統領宣言」によってコスタリカは永世中立であると宣言した。

 現状

コスタリカは49年より、軍事同盟としての面を強く持ち同盟内での集団的自衛を定めている米州機構に加盟しているため、中立ではない。また、78年から続くニカラグアでの独裁政権打倒のためにアメリカと協力して国内に侵攻部隊の前線基地を提供して、宣言後も積極的にこれを助け続けた。イラク戦争時には、武装警察部隊が実質的に軍事力として参戦(コスタリカの武装警察能力はニカラグア国軍の三倍の軍事力を持つといわれ、日本の自衛隊に似た存在であると考えてよい)している。

ただし、コスタリカの国内政治は中立であることを標榜していることを忘れていたわけではなく、特に86年に大統領となったオスカル・アリアス・サンチェスは中立平和路線を推進して、ニカラグア侵攻基地を撤去し、中米各国で続く紛争解決に奔走した。

現在は、他中南米各国同様に麻薬シンジケート対策が国内の最重要課題となっており、他国干渉にリソースを割くことができず中南米の国際的緊張は以前のものとは大きく変質してきている。

 

以上

 

 

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