中国時代変遷
2016/04/03
中国とは、ユーラシア大陸の東部に位置する黄河、長江周辺の平野部である中原を中心とした俗に中国大陸と呼ばれる地域に発生した国及びその近隣周辺に発生した国を指す。この地域には歴史上多くの民族、国家が存亡し、世界でも最も古い時代に文明が発生した国の一つで、最も多くの人口を擁してきた国と考えられている。
この項では古代文明である黄河文明以降の、確認されている国家、文明を羅列的に扱い、それぞれの時代がどのような時代であったかを簡潔に示す。ここで使用する時代区分は、中国史の関連学会で使用されている時代区分名を主とするが、時代区分によって特記するべき時代変遷の事項があると考えられる場合については区分を分けて記述するものとする。また、時代区分ごとに記述する事項は以下の項目とする。
記載時代
殷(商)
周(西周)
春秋時代(東周)
戦国時代(東周)
秦
漢(前漢または西漢)
新
漢(後漢または東漢)
三国時代
西晋(晋)
東晋十六国(五胡十六国)時代
南朝(南北朝時代)
北朝(南北朝時代)
隋
唐(初唐)
武周
唐(盛唐~晩唐)
五代十国時代
宋(北宋)
宋(南宋)・金
元
明
清
中華民国
中華人民共和国
記載項目
年代 |
王朝/創始者 |
帝、皇帝、王の代数 |
首都 |
周辺の有力国 |
夏
データ
年代 | 紀元前2070年~紀元前1600年頃 |
王朝/創始者 | 夏王朝 / 禹(夏后禹) |
帝、皇帝、王の代数 | 17代(18代とする文献あり)※5代帝相の後、一時失陥 |
首都 | 陽城(その後商丘などへ数回遷都を繰り返す) |
周辺の有力国 | 東夷、薫育、三苗(異民族)/ 有窮氏、有易氏、塗山氏(周辺国) など |
版図
※Wikipediaより
※中国まるごと百科事典より
概要
・夏は「史記」「竹書紀年」などの信憑性が高いとされる史書に多く記述されていたが、考古学上の発見が近代になるまで存在せず、伝説上の王朝とされてきた。しかし、1959年に発掘された二里頭遺跡がその後の調査によって新石器時代紀元前18~15世紀頃のものと測定されたことから、中国学会では夏王朝の遺跡と比定されている。ただし、この遺跡には文字資料が無いため、史書と対応する物証が発見できておらず、現状では二里頭遺跡をそのまま史書上の夏王朝とは比定できず、「夏王朝期の遺跡」として現状では分けて考えるべきだろう。
・二里頭遺跡は時代区分ごとに4期に分けられ、1・2期は米を含む五穀の農村文化と石器や陶器の工房が発見され、さらに3・4期には青銅器の工房も発見されている。大規模な宮殿、墳墓、道路もあり、玉璋などの存在から祭祀が行われていたものと考えられている。
・史書上の夏王朝は、五帝の一人顓頊(せんぎょく)の孫、四罪の一人鯀(こん)の子である禹が立てたとされている。ただし、禹は先帝の舜に禅譲を受けて即位し、前代以前の帝位継承と特に変わったものではない。禹自身は執政であった益に禅譲しようとしていたが、死後諸侯が禹の子である啓を推戴したため、啓がそのまま即位して中国最初の世襲王朝である夏が創立したとされる(竹書紀年では啓が益から帝位を簒奪したとされている)。
・夏王朝は17代続いたが、3代太康が暗愚な人物で、有窮氏の羿(げい)に反乱を起こされ、5代相が放逐されて王朝は一時的に失陥したとされる。しかし羿はさらに寒浞(かんさく)に簒位され、さらに寒浞が殺され王位は夏王室にもどった。
・14代孔甲が暴虐な人物で諸侯が離反しだすと夏王朝が衰え始め、17代桀がさらに暴虐な人物であったため、殷の湯(とう)が諸侯を集めて桀を倒して夏王朝は滅亡した。桀に関するエピソードは、殷の最後の帝である紂(帝辛)が周に倒された内容と酷似しており、恐らく周王朝の正当性を強調するため紂と同様のエピソードを桀になぞらえたものと考えられている。暴君の意である桀紂は、当代の文献、経典などに比喩として頻出する。
・殷建国の後も、夏王室は諸侯として杞国へ封ぜられている。
その他
・末喜(妹喜)
桀の室の一人。傾国の美女。末喜のために催した宴は酒池肉林、肉山脯林の語源とされる。
・彭祖
800年生きたという伝説の仙人。夏から殷、周代まで生きたとされる。諸子百家に多大な影響を与えた。
・劉累
政治家であるが、竜を飼育しようとして失敗したが孔甲に死んだ竜の肉を献上したことで有名。また全ての劉氏の始祖と信奉されている。
商(殷)
データ
年代 | 紀元前1600年頃~紀元前1046年(夏殷周断代工程による。紀元前12世紀後半~11世紀後半まで諸説あり) |
王朝/創始者 | 殷王朝または商王朝 / 成湯(天乙) |
帝、皇帝、王の代数 | 30代 |
首都 | 毫 その後数度遷都され最後は大邑商(殷墟) |
周辺の有力国 | 蜀、楚、越、周(周辺諸侯)、羌、氐(テイ※氏に下棒)、淮夷(異民族)など |
版図
※中国まるごと百科事典より
※Wikipediaより
※堀貞夫の古代史・探訪館より
概要
・殷(商)は、夏の諸侯であった契(せつ)が封ぜられた商国から発して15代目の湯の代に、前王朝である夏の帝桀を放伐して成立した王朝とされる。殷は夏と同様、史書にのみ存在する伝説上のものと考えられてきたが、清代1899年に劉鶚という者が薬として使用されていた竜骨に甲骨文字が記されていることを発見し、この産地を調べたところ多数の出土品が発見されて殷代の遺跡調査が進んで実在が確定的なものとなった。
・殷代の最後期都城である殷墟から出土した甲骨文字の解読から、史書との比定も進み、史記等に書かれていることが実在性が高いことが判明した。また殷代初期の二里岡遺跡の状況から殷が二里頭遺跡の影響を強く受けていることが分かり、その時代の遷移を窺い知ることができる。なお殷の初期都城は毫とされているが、この毫とは二里頭とする研究もあり、二里頭の後期部分は殷代のものと比定する考え方である。
・殷代の特徴は、青銅器文化、文字の記録、卜占による祭政一致の文化と考えられる。甲骨文字は22代武丁の代からみられる。史書では武丁には言語障害が有ったとされている記述もあり、それが原因で文字が発明されたと考える向きもある。また太陽崇拝を行っていたとみられ、十干を帝の諱としていたことが分かっている(湯→天乙等)。
・史書上での殷は、商15代の湯が帝桀を放伐して商朝を築いたとされるが、湯の実在性は検証されていない。また、中国史上初の放伐による王朝交代であり、易姓革命の思想を正当化できる初例となっている。これは後代の王朝が先王朝を簒奪した際の正統性を粉飾するために、先王朝にも同様の事が起きたものとした創作されたエピソードであると考えることができる。なお商王室の初代である契は、帝嚳(コク)の子で帝禹より商の地を与えられて始祖となった、という伝説上の人物。
・殷代の歴代の王(帝)の事績は30代継続したものの、内容的には少ないと言える。4代太甲の代に伊尹による教育に関するエピソードや、盤庚による殷墟への遷都、武丁による中興といったものがわずかに残るだけである。武丁以降については甲骨文字の資料があるためある程度の当時の状況は判明している。
・商朝を理解するために必須となることは中国史上唯一、一つの王統による相続を行わなかった王朝であると考えられる点である。当時の政治体制はあくまで邑という都城を組織の一単位として複数の邑の共同体で行われており、指導者選定はこの共同体の中で邑ごとに持ち回りで行われていたと考えられる点である。即ち諱に付く十干は、十の部族に対応していると思われる。また「商」とは女性の陰部を指す文字であり、商朝は女系系譜を持つ部族だったという研究もある。
・武丁以降の王は暗愚な者が比較的多く、国力が衰微したものとされている。最後の帝である帝辛(紂)は史記に於いて暴虐な人物として描かれ、英邁な人物が側近にあったにも関わらず放逐(箕氏朝鮮へ繋がるとされる)、誅殺し、淫欲に溺れたとされる。しかしながら、夏の項に記した通りほぼ帝桀のエピソードと同一である。論語にもあるように、多くは後代の粉飾で記述を否定的に捉えられており、考古学的資料にも裏付けはなく創作の可能性が非常に高い。いずれにしても、30代紂の代に、西方の周の指導者として立った武王に放伐されて商朝は滅んだ。
・商王室の遺児はその後宋公に封じられ殷代の祭祀を残した。紂の兄弟である微仲衍は宋公となり、その14代子孫が孔子であるとされている。孔子の家系は現代も続いており、世界最古の家系と認識されている。なお現在、孔子79代目子孫は中華民国国策顧問を務めている。
その他
・伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)
隠者、儒教の聖人。殷代末期の孤竹国の王子で兄弟。紂王を攻める軍に向かって忠孝を説き、止めさせようとした。
・妲己(だっき)
末喜と並んで称される傾国の悪女。炮烙、酒池肉林、九尾の狐など多数のエピソードに彩られる。
周(西周)
データ
年代 | 紀元前1046年頃~紀元前771年または紀元前759年(周の東遷まで) |
王朝/創始者 | 周王朝 / 武王(姫発) |
帝、皇帝、王の代数 | 12代(13代) ※10代厲王(れいおう)の代に王が放逐され28年間空位となり共和制となる。末王の幽王が滅ぼされた後、東西分裂して鎬京に建てられた携王を含む場合13代となる |
首都 | 鎬京(宗周) |
周辺の有力国 | 呉、宋(諸侯)、東夷、犬戎(異民族) |
版図
※Wikipediaより
※中国まるごと百科事典より
※堀貞夫の古代史・探訪館より
概要
・周王室は初代武王から数えて15代前の后稷(こうしょく)から始まったとされる。史記や山海経によれば、后稷は帝嚳(コク)の子という伝説があるが、商朝同様権威付けのための伝説と考えてよいだろう。その後、3代前の古公亶父(ここうたんぽ)の3人の子の末子である季歴(きれき)を嫡子に選ぶ際に長兄二人である太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)の荊蛮への出奔と呉の建国へ繋がる説話が残っている。
・武王の先代:西伯昌(文王と追号)の代に既に帝辛(紂)への反乱は諸侯により企てられていたが、名望のあった西伯昌は紂に捉えられて奴隷とされた。史記集解によると、その際に息子を羹にされて飲まされ、西伯昌の聖人との名望を傷つけられており、これを生涯恨んだとされている。昌は結局生涯、殷の臣下であったが、その息子の発(武王)が呂尚(太公望)や周公旦という希代の臣を得て紂を打倒することになった。
・周代治世の最大の特徴は確立された封建制度と言って良い。武王は殷を放伐した後、自身の功臣や、商朝で虐げられていた忠臣、商王室の末裔、上古の伝説の帝の子孫らを各々地方に封じて、土地を与える代わりに王室への忠信と軍の維持などに責任を持たせる形とした。ただし、これが後の春秋戦国時代へとつながることになる。
・武王は即位後すぐに亡くなり、摂政である周公旦が成康の治と言われる名高い善政を行ったとされる。しかしその後徐々に衰退を始め、10代厲王(れいおう)の際に朝政は腐敗を極め民衆が王宮へ乱入して王を殺害しようとする事態が発生し厲王は逃亡した。空位となった朝政を埋めるため、厲王が亡くなるまで28年もの間、周公・召公の両氏が交代で執政する共和制が取られた。竹書紀年によれば共伯和という人物が執政したという記録があり、これが現代の共和制の語源となっている。共和制後に即位した宣王は当初善政を敷いたが次第に暴君となり、西周滅亡を早めることとなってしまった。
・西周の最後の王とされる幽王は暗愚で淫乱な人物であったため、諸侯の反発を買い、最終的に廃后された正室の父が異民族の犬戎と結んで紀元前771年首都鎬京を攻め幽王を滅ぼした。これで統一政権としての周王朝は一旦滅亡するが、虢(カク)公を中心とした諸侯が、残された遺児の余(携王)と宜臼(平王)に勢力が分かれて周王室の後継争いを起こす。携王は鎬京で即位し、紀元前759年に滅亡するまで、洛陽に都した東周と12年にわたって王室が東西分裂することとなった。
その他
・雷震子
文王の第百子とされる伝説上の人物。翼のある半神半人として描かれる。武王に従って戦ったとされる。
・褒姒(ほうじ)
幽王の室で傾国の美女。伝承の類型は末喜らとほぼ同じ。笑わなかった話と、烽火の逸話が有名。
春秋時代(東周)
データ
年代 | 紀元前770年~紀元前403年(晋の分裂まで) |
王朝/創始者 | 周王朝(及び各地の覇者) / 平王(宜臼)※東周 |
帝、皇帝、王の代数 | 25代(戦国時代まで。26代昭文君を即位したとする説有り) |
首都 | 洛陽(洛邑)、成周 |
周辺の有力国 | 楚、呉、斉、蜀(諸侯)、犬戎、羌、楊越(異民族)など |
版図
※中国まるごと百科事典より
※Wikipediaより
概要
・周は12代幽王が臣下と結んだ犬戎の侵略によって滅ぼされるが、その子らが東西に分かれて王朝が分裂することとなった。そのうち副都にあって鄭の武公らに推戴されて即位した平王から連なる王室が東周である。しかしながら西周末期から王室の弱体化が激しく、東遷後権勢を奮った鄭を3代桓王は討伐を企てる(繻葛の戦い)も逆に撃退されてしまい、一諸侯から返り討ちに遭うという事実から王室は実質的に統治権力の座から致命的に失墜した。しかしながらそれでも周王室が打倒されなかったのは、この時の鄭の荘公が発した天子を敬うべきであるとの認識が諸侯にあったからとされる。周王室は権力は無いが、尊王攘夷のスローガンの下、各地の覇者からの権威づけのための名目上の存在として長く存続することになった。これは日本での室町後期から江戸期までの天皇家の立ち位置と酷似するものと言える。
・「春秋」時代とは、四書五経の一つである同名の書物の内容と一致する時代であるためこの名称がつけられている。春秋は年表のように各年代の出来事を事務的な記事で書かれた書物で、記述されている年代は正確には紀元前722年~紀元前481年までである。
・繻葛の戦い以降、周王室に封ぜられた諸侯及び楚などの周王室とは関係のない有力国がそれぞれの地方で覇権を争う事となる。強大な国力を持ち諸国を取りまとめて会盟の会頭を務め夷狄を征討する者は覇者の尊称を受け、特に有名であるのが春秋五覇と呼ばれる覇者である。五覇の覇者を誰とするかは書物により一定しないが、おおむね斉・桓公、晋・文公の二者を中心に、有力国である宋・襄公、楚の荘王、呉王の闔閭(こうりょ)、越王の勾践(こうせん)などがあげられる。これらの大国はそれぞれ覇を争うが各々を尊重し、家系に問題があると覇者がこれに干渉して復興を試みたりと互助的な役割を果たした。このあたりが春秋時代の前期部分にあたる。
・前期終盤に覇者となった楚の荘王は、邲の戦いで晋を破って中原を併呑すると、諸侯の中で大きな争いがしばらく無くなり平和が訪れる。こうした中で諸侯の下に士大夫と呼ばれる貴族勢力が勃興し、政治の実権が貴族に移った。この時期は名宰相と呼ばれる人材も輩出されたが、次第に貴族や王族の間で権力争いが繰り広げられるようになり、諸侯の内部で混乱が見られるようになる。これが春秋時代の中期にあたる
・こうした中、江南地域で呉、越という異民族の新興国が起こり急速に伸長した。呉が楚の首都郢(えい)を陥落させ、この頃覇者となっていた晋と中原を争うようになる。後に越が呉王の遠征中に間隙を付いて呉を滅ぼすとこれが中原に進出した。異民族が中原を跋扈し周王朝の権威によって辛うじて保たれてきた秩序が実質的に崩壊してきたことと、晋が臣下の下剋上で三国に分割され、また太公望以来の有力国である斉が臣下に国政を牛耳られて国を簒奪されるにあたり、春秋時代と呼ばれる時代は終わりを告げ、群雄が割拠する戦国時代へと移行することとなる。
戦国時代(東周)
データ
年代 | 紀元前403年~紀元前221年 |
王朝 | 各地の王及び周王室 |
帝、皇帝、王の代数 | - ※春秋時代参照 |
首都 | 成周、西周 |
周辺の有力国 | 韓、趙、魏、楚、燕、斉、秦、中山(主な周辺国)、羌、月氏、匈奴、楊越、氐、越(主な異民族) |
版図
※中国まるごと百科事典より
※manapediaより
※Wikipediaより
概要
・春秋時代の主要国であった晋が臣下の三者に国土を分割されてそれぞれ韓・魏・趙となり、更に斉が臣下の田氏に簒奪され、世は戦国時代へと移った。ただし、歴史上での時代区分でははっきりと前403年からとしているわけでは無く、春秋時代後期には既に周王室の建前上の権威も喪失し始めていたため、更に以前から、あるいは春秋時代と分ける必要性を否定する考え方もある。なお「戦国」時代とは、同時期の縦横家の書物を前漢の劉向が撰じた「戦国策」から。戦国策の体裁は同時代の政治や外交、軍事のあり方を各国ごとに纏めた形となっている。また「資治通鑑」も前403年から記述を始めている。
・戦国時代初期の覇者は晋の主要領土であった中原地域を支配下に置いた魏で、名君と言われる文侯のもとで李克、呉起といった有能な官吏が登用されて勢力を広げた。しかしながらその後、未開地域を拡大して勢力を広げた斉が、囲魏救趙となる桂陵の戦いで魏を打倒した。また背後に広大な領域を持つ秦が台頭してくる。
・中期になると、楚が魏から亡命した呉起を迎え入れ一時的に勢力を広げ、また趙が騎馬民族の戦術である胡服騎射と呼ばれる戦法で復興した中山国を滅ぼすなどして勢力を拡大した。また前期より国力を蓄えていた秦は、李克の法経の考えを受け継いだ商鞅によって行われた法治主義と富国強兵策が奏効して国力が増大し、楚を大きく圧迫した。これによって一時的に趙、斉、秦の三国鼎立の状態となる。
・戦国後期になると、趙がまず内乱によって武霊王が倒されると急速にその力を衰えさせて脱落し、斉・秦の二強となる。更に斉が、5か国連合軍に首都臨淄(リンシ)を陥とされるとほぼ全土で勢力を失い、秦の一強状態が確定した。
・秦は将軍・白起によって破竹の勢いで他国を制圧していく。まず前256年に長らく生きながらえてきた周王室を滅ぼした。更に前230年に韓、前228年に趙、前225年に魏、前223年に楚、前222年に燕、前221年に斉を滅ぼして、ついに戦国時代は終わりを告げて秦による統一王朝が成立することになる。
・三家分晋と言われる晋の分裂に大義を与えた冊封を行ったことにより建前上の権威をも失うに至った周王室だったが、狭い畿内だけの領土で未だに生きながらえることができていた。しかし内実は内紛を繰り返しており末期には東西で勢力が分裂し、末王である赧王(たんおう)は西周室の武公に身を寄せて、河南(西周)に遷都していた。しかしその後河南は秦の攻撃を受け、武公が領土を秦に献上してしまったため周は最後の領土を失って滅亡した。王権の象徴である九鼎はその後、東周公の昭文君に受け継がれ少しの間周王室は永らえたが、いずれかの時点で絶え九鼎も秦に奪われ、史上にあるだけでも約1千年続いた命脈は遂に途絶えた。
秦
データ
年代 | 紀元前221年~紀元前206年 |
王朝/創始者 | 秦王(帝)室 / 贏政(始皇帝) |
帝、皇帝、王の代数 | 3代 |
首都 | 咸陽 |
周辺の有力国 | 匈奴、羌、月氏、東子、粛慎、氐(異民族) |
版図
※中国まるごと百科事典より
※Wikipediaより
概要
・秦は周の孝王に使えていた非子が贏氏の姓を賜って後に大夫となって秦邑にて勢力を伸ばした一族と言われる。正確な資料では前822年に荘公が大夫となった頃から史上に現れる。後に周の東遷後に諸侯に列せられ、春秋の項にあるように9代穆公(ぼくこう)が覇者の一人となるほど国力が増大するものの、後に人材を失いしばらく低迷する。しかし25代孝公の代にて商鞅を得ると富国強兵策と厳格な法治主義によって国力を大幅に増大した。この頃に後の天下統一へ繋がる基礎が築かれたものとと言える。
・戦国の項の通り、戦国後期に秦一強時代となると秦は周王室を皮切りに各国を滅ぼして前221年に中国中原地域を統一するに至った。これは中国史上では初めての統一王朝となり後の王朝は全てこの版図を基礎とすることになる。特に、天下人となった秦王政は王を超えた存在としての称号を欲したため側近たちは帝の称号を超える皇の号を推したが、政は更に自分はそれを超える存在であるとして皇帝を名乗るようになった。これにより後の統一王朝あるいはそれを僭称する君主は皇帝を名乗ることになる。
・始皇帝の施政に象徴されるものは、郡県制や度量衡の統一に代表される中央集権であると考えてよい。それまでの世襲封建主義から中央政府が全国を直接統治できるピラミッド型の行政単位を策定、更に人物も家柄では無く能力で登用した。また度量衡や通貨、使用する文字体の統一で経済の一体化を図り、大規模な運河、都市造営、道路建設を行って国内の経済を発展させることに成功した。一方で焚書坑儒に代表される集権制の障害と考えられる物は徹底的に排除する政策を行った。
・しかし秦は始皇帝の死後急速に衰退することになる。始皇帝の行った施政は合理的な側面が大いに有ったものの、他方民衆に対しては疲弊と反感をもたらすもので、特に咸陽や阿房宮、万里の長城の建設には民衆に多大な犠牲を強いるものだった。これは陳勝・呉広の乱に代表される各地の民衆反乱へ繋がることになる。
・始皇帝死後、宦官の趙高が専横を振るい、太子である扶蘇や、李斯、蒙恬、蒙毅といった国の礎となる人材を次々と排したため施政が乱れることになる。これを諫めた二世皇帝胡亥をも襲って誅殺すると、いよいよ秦王朝は末期を迎える。陳勝の後を受けた項羽麾下の反秦連合武将の一人である劉邦に対して、趙高は密かに二世皇帝を殺害して国を二分する策略を立てていたが、劉邦に信用され無かった上、二世皇帝暗殺後を受けて即位した子嬰に粛清された。子嬰は咸陽に迫る劉邦軍に国が敗れたことを悟り、自ら死装束を整えて劉邦の前に出て劉邦に降伏し、在位わずか46日、始皇帝即位後わずか15年で秦は滅亡した。
・秦滅亡後、遅れて咸陽に入場した項羽によって子嬰を含め王室や側近一族は徹底的に粛清され、咸陽に火をつけて都を破壊した。覇者を名乗った項羽は劉邦をはじめ冊封を行ったがこれが不公平なもので諸将の不満を誘発させ、さらに臣下を信用せず咸陽での行いなどから人心が次第に離反して、後の楚漢戦争へとつながっていくことになる。楚漢戦争は垓下の戦いで劉邦が勝利して天下を再統一する前202年まで続くことになる。
漢(前漢または西漢)
データ
年代 | 紀元前202(または前206)年~8年 |
王朝/創始者 | 漢帝室 / 劉邦(高祖) |
帝、皇帝、王の代数 | 14代(または15代※数え方に複数説あり後述) |
首都 | 長安 |
周辺の有力国 | 匈奴、烏桓、烏孫、鮮卑、夫余、羌(異民族) |
版図
※Wikipediaより
※中国まるごと百科事典より
概要
・農家の出身で侠客であり、沛県の亭長をしていた劉邦は不思議と人徳のある人物で陳勝呉広の乱発生時に反乱軍との処遇をどうするか揺れていた県令に代わって仲間内から推されて反乱軍の将として参加することとなった。後に指導者だった項梁の後を受けた項羽麾下の一将となって勢力を次第に伸ばし、最終的に咸陽を陥とすこととなった。この件は項羽の猜疑心を呼び鴻門の会にて暗殺されかけたが首の皮一枚で脱出に成功、後に許された劉邦は漢王に封ぜられた。しかし次第に項羽によって排された諸将を集めて項羽と対するようになり5年に及ぶ楚漢戦争を繰り広げることになる。これまでの間で漢朝を支える人材を集めたことが後に大きな成果をもたらすこととなった。
・垓下の戦いによって項羽を破った劉邦は遂に天下を統一し、長安を都として漢朝を打ち立てた。漢とは、黄河支流である漢江周辺地域の漢中が初期の支配地域であったために号した者で、後に「漢」が後漢まで合わせて約400年もの長期に渡り中国を支配したことから中国や中国文化を表す別称とまでなった。
・前漢の初期の特徴は、郡国制による支配体制と外征の抑制による国力の増強である。基本政策としては、咸陽攻略時に書殿から蕭何(しょうか)が秦の歴史書、法律、記録等を持ち出してその施政をほぼ引き継ぐ形としたが、郡県制に変えて封建制を一部取り入れて建国に貢献のあった諸侯を各国に封じることとなった。しかしこれは一時的なもので、高祖の代から既に韓信を始めとして次第に劉氏以外の諸王を廃し、7代武帝の頃には実質郡県制となった。また、経済的には基本的に5代文帝をはじめ倹約を旨として外征を控えて異民族の強国である匈奴と盟約を結ぶなど国力を蓄えることに専念し、さらに呉楚七国の乱後に塩・鉄の専売を確立させるなど国力を安定させることに成功している。
・高祖が崩御すると一時的に2代恵帝の生母である呂后による専横が始まるが、呂后の死後文帝・景帝が後に文景の治と言われる善政によって国力が増大する。ただしこれは各諸侯の力も増大することに繋がり、中央は各国の領土削減にとりかかり、これが呉楚七国の乱に繋がることになる。この乱は大規模なものだったが、鎮圧後の7代武帝にあって完全に中央集権が確立されると漢朝は全盛を迎えた。
・この期に至り、漢の施政は変質する。武帝は周辺国への外征を開始して匈奴、朝鮮、ベトナムを制圧し、烏孫、大宛等の西域との交易を開始した。内政にあっては儒者を数多く登用して後の儒教国家化へとつながった。塩・鉄の専売を始めたのもこの頃である。しかしながら、これら施策は内部に民衆への疲弊と政府内の抗争を生む遠因となった。
・武帝の後、宰相霍光や宣帝によって方針が改められて儒教的な恤民政策が取られて再度国内が安定するが、後になって儒者による政治の混乱と外戚や宦官の専横を許すことになる。前33年11代成帝即位にあって外戚にあたる王氏が実権を握ると前漢はいよいよ末期となる。王氏は例にもれず次々と一族を官位につけ王莽もその一人となる。成帝崩御後、12代哀帝の外戚によって王氏は一掃されるが、王氏の中で人望あった王莽だけが一人影響力を残した。
・哀帝が急死すると王莽を始めとする王氏は玉璽を奪って14代平帝を擁立し簒奪の準備に入る。5年に平帝が崩御するとわずか二歳の劉嬰を後継者にして、自身は摂皇帝と名乗って後見となり、同年高祖の霊から禅譲を受けたと称して劉嬰を廃立して新朝を打ち立てて簒奪に成功し、ここに漢朝は一旦滅亡することになる。なお劉嬰は正式には即位していないが列伝には記載され、更に新滅亡後に諸侯に推戴されて短期間即位しているため一代として数えることもある。
新
データ
年代 | 8年~23年 |
創始者 | 王莽 |
帝、皇帝、王の代数 | 1代 |
首都 | 常安(長安) |
周辺の有力国 | 匈奴、扶余、高句麗(異民族) |
版図
概要
・前漢11代元帝の皇后・王政君の甥で、後に14代平帝の皇后の父となった王莽は、王政君が皇后となった際には一族が諸侯に列せられても彼の一家だけが貧しい状態だった。王莽自身は儒学を修めてその人となりから名声が高まっていた。大将軍だった王鳳が死に際して王莽を12代成帝に託すと王政君らの後ろ盾で順調に出世したが、成帝崩御後即位した13代哀帝によって罷免され一度下野することになる。しかし、哀帝崩御後に玉璽を強奪して14代平帝を擁立して政権中枢へ返り咲くことに成功した。儒者を周囲に付け、儒教的施政が一層強まることになる。
・平帝が、暗殺を疑われる形で14歳で崩御すると、劉嬰を後継者に仕立てて自身は摂皇帝と名乗って簒奪を本格的に開始し、8年に偽造した高祖の符命などを大義として、遂に禅譲を受けたとして自身が帝位に付いた。これは中国史上で初の帝位簒奪行為となる。また「新」とは封ぜられた国から名を取っている。
・王莽の施政の特徴は、有名な周朝への復古主義である。儒教を背景として、地名・官位などを復古的なものにし、貨幣制度の改定を頻繁に行い、高利貸しや奴隷売買の制限など当時の状況を全く無視した理想による統治を行ったため建国後程なくして国内は大混乱となった。更に極端な中華思想から周辺朝貢国を過度に卑下する行為が周辺国の離反を生み大きな火種となる。
・14年呂母という老女が私怨から、世に不満をもつ若者たちを集め山東の県令を討つと、後にこの者たちが各地の反乱分子と結託して次第に大規模な反乱軍(赤眉軍)を形成する。更に緑林軍という勢力も反乱を起こし国内は内戦状態に突入する。緑林軍にあった漢帝室の縁戚である劉玄が諸将に推戴されて更始帝として23年即位する。
・王莽は軍事的知識に乏しく且つ常識外れの戦略を取ったため、反乱軍に対して数千の兵がわずか13騎の反乱軍に敗れるなど各地で敗戦を続けた。更始帝は同年常安を襲って王莽を打倒して新を滅亡させた。赤眉軍も一時的に更始帝に帰順したが、更始帝は帝位を争った兄弟や部下を誅殺したりして排し、その中に後に光武帝となる劉秀が含まれる。劉秀が更始帝から離れることによって後に後漢朝へ繋がる勢力を蓄えることができるようになる。
漢(後漢または東漢)
データ
年代 | 25年~220年 |
王朝/創始者 | 漢帝室 / 劉玄 |
帝、皇帝、王の代数 | 14代 |
首都 | 洛陽、長安、許昌 |
周辺の有力国 |
版図
※Wikipediaより
概要
・緑林軍の中にあった漢帝室縁戚の劉玄が更始帝として新末23年に即位したが、王莽打倒後の諸将に行った冊封などの遇し方によって内部対立が起こった。もともと更始帝が、複数いる漢帝室の後継候補から周囲が操作しやすい比較的暗愚と諸将から考えられた人物だったことも原因と考えられる。次第に更始帝勢力から離反が始まって、後に赤眉軍が内部対立の激しい長安に迫り、25年更始帝を殺害するに至る。
・この時期は新末後漢初と言って戦国時代のような各地に軍閥が割拠する事態となったが、戦国期と決定的に違ったのは基盤とする確固たる地域を有していた者は少数で且つ規模の小さいものだった。謀反を疑われて半ば軟禁状態にあった帝室縁戚の劉秀は、河北平定という名目を得て23年長安を脱し、この地の諸将を撃破糾合して基盤を固め最大勢力へと上っていく。25年に河北をほぼ平定した劉秀は周囲から皇帝即位を奏上されて漢を復活させる形で光武帝として即位した。なお光武帝は中国史上唯一、一度滅亡した王朝復活に成功した人物となる。
・赤眉軍は更始帝殺害後、子の劉盆子を即位させたが軍内部で争いを続け、また長安で略奪ばかり行っていたためほとんど盗賊に近い状態で、略奪するものが無くなると西へ転進する有様だった。光武帝は弱った赤眉軍を迎え撃ち、戦わずしてこれを降伏させてほぼ前漢時代の版図を再統一することとなった。
・後漢の特徴は、諸侯や側近の力を抑えて軍事力を地方に分散させない、より一層進んだ中央集権と、儒教的思想を背景とした文民政策と考えてよい。基本的な施政は前漢と変わらないが、諸侯が封じられた地域は一層小さく通常は一邑のみという状態で有力者が地方に勃興しない構造とした。また中央政治では大司徒等三公を前漢同様に設けたがこれらの力は弱められ、本来は皇帝秘書役である尚書に実権を集めて有名無実化し、一部の側近に権力が集中しないようにした。さらに軍事的には平時の軍事力は最小限にとどめて財政削減を行った。
・ただし、これらの方針は皇帝に能力のある場合は機能したものの、外戚によって幼帝が擁立されると権力がこれらに握られるようになって、政治が壟断されることとなる。3代章帝以後の皇帝は全員が10代で即位、また悉く短命な皇帝が続いた。光武帝が作った基本施政が以前のように地方から反乱が起きにくい構造でかつ経済が安定して比較的平穏な世となったため結果的に後漢朝は長く存続できたが、後漢帝室自身が権力を掌握していたのは章帝以降はわずかの期間に過ぎない。
・11代桓帝の代に外戚が排斥されて以降、宦官が以降は党錮の禁などを通じて完全に実権を掌握した。宦官は軍事的背景を持たないため、自身の領地から搾取を行って私財を蓄えこれを賄賂にして権力に近づいた。こうした背景から地方で反乱が頻発するようになり、184年ついに太平道教祖の張角を首領とした黄巾の乱となって顕在化する。乱平定軍の一将だった董卓が宦官に誘拐された13代少帝を救助すると、洛陽周辺の軍事力を策謀を巡らせて急速にこれを吸収、勢力を拡大させて最大勢力となる。最終的に少帝を退位させた後殺害、14代献帝を即位させて実権を握った。
・相国となった董卓の施政は暴虐そのものとされており、周囲から反乱を買って最終的に190年、部下の反乱によって打倒された。これを皮切りに国内は内乱状態となり、後漢政府の統治能力は完全に失われた。後に献帝は黄巾の乱鎮圧軍にあって反董卓連合の将だった曹操を頼って許昌へ逃れ、曹操に魏を封じて魏王とした。曹操は生涯献帝に仕えたが、後を継いだ曹丕は献帝に禅譲を迫って220年皇帝位を簒奪、遂に後漢は滅亡した。
・しかしながらこの期には劉備が蜀漢で即位、孫権も呉で自立しており再び国内は長い動乱の時代へと移ることになる。漢帝室は西晋滅亡時の永嘉の乱まで山陽公に封ぜられて生きながらえた。
三国時代
データ
年代 | 184(220)年~280年 |
王朝/創始者 | 魏:曹氏/曹丕 、呉:孫氏/孫権、蜀:劉氏/劉備 |
帝、皇帝、王の代数 | 魏:5代 、呉:4代 、蜀:2代 |
首都 | 魏:許昌、洛陽 呉:武昌、建業 蜀:成都 |
周辺の有力国 | 匈奴、鮮卑、羌、夫餘、高句麗、大月氏(異民族) |
版図
※Wikipediaより
※中国まるごと百科事典より
概要
・後漢末期13代少帝の際に政府実権を握っていた十常侍に代表される宦官が、政府内部の混乱に乗じて一地方豪族に過ぎなかった董卓に滅ぼされると、董卓が実権を握って後漢は事実上中央政府としての統治能力を失った。黄巾の乱鎮圧のために各地に拠っていた諸将が勢力争いを始める。中央政府で董卓が暴政を布く間に力を付けたのが中郎将・袁術配下の孫堅で、孫堅は袁術麾下にあって反董卓軍を指揮し、董卓軍を陽人の戦いで破り、洛陽を攻めてこれを陥とした。洛陽を落とした反董卓連合軍は目的を失って本拠の各地へと散った。
以下執筆中