シャーロック・ホームズを主人公とする小説作品 その5(1904~1905年)

      2016/04/02

本項では「空家の冒険」で復活を遂げたシャーロック・ホームズの、一連の連載である「シャーロック・ホームズの帰還」に収録される残り9篇を取り上げる。前項の「空家の冒険」でも記述してあるが、本連載はホームズの復活を渋るドイルが、破格の条件を雑誌社から受けてようやく重い腰を上げて世間の期待に応えたものであったのだが、そもそもは8篇で終了する予定であった。ドイルは、8篇を1903年の秋頃までに書き上げその後またしても秋の総選挙に立候補して落選するという目に遭っている。1904年になって残り4篇を書いて、本シリーズは終了、そして例によっていまだホームズを好きになれない作者は、ホームズ物も終了、と思っていた。

ドイルは、本シリーズとは全く別の契約で、マクレーキング運動で有名なジャーナリストで、「マクルーアマガジン」を出版するサミュエル・シドニー・マクルーアと一篇中編を書く契約をしており、この契約で書いた一篇が他出版社との兼ね合いから本シリーズの最後の一篇として「帰還」の最後に収録される「第二の汚点」である。

ところがシリーズの最終回でホームズが「引退」したことになっていたにも拘らず、この「引退」は「最後の事件」ほどの関心は得られなかった。「第二の汚点」からホームズ物が復活するまでにはまた、3年9か月もの長い時間が必要となる。

 1904年

 プライオリ学校 The Adventure of the Priory School

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発表年 1904年1月/2月
掲載誌 コリアーズ・ウィークリー、ストランド
ホームズの年齢 47歳
主要登場人物 ジョン・H・ワトソン、ソーニクロフト・ハクステブル、ジェームズ・ワイルダ、ルーベン・ヘイズ、ホールダネス公爵
物語の視点 ワトソンによる記述
単行本での掲載順 「シャーロック・ホームズの帰還」5

・本作も前作に続いて自転車が関わる事件。本作内でホームズは、自転車のタイヤの跡を42種類知っていると述べている。また本作の場合は自転車の走行痕が問題解決の核心を担うことになった。ただし、この問題解決方法はシャーロキアンには広く知られているが、ドイルによるよくある勘違いがあるということが定説になっており(後述)、グラナダTV版では自転車ではなく「牛の蹄鉄」がその役目を担うように改変されている。

・政権の重鎮であるホールダネス公爵の唯一の子息サルタイヤが寄宿学校から失踪し、それと共に教師のハイデガーも失踪した。ホームズとワトソンは学校へ行き、まずホールダネス秘書のワイルダーらから状況を聞いて失踪した方向の地図から実地に調査を始めた。翌朝、教師のものと思われる自転車の後を追うと果たしてハイデガーの他殺体を発見するのだった。さらに殺人現場から続く蹄鉄の後を見てその先にあった宿屋の様子がおかしい事に気づく。ホームズは全てを悟り、近くのホールダネス公爵の屋敷へ向かう。ホームズは公爵と会見するとこう言った「懸賞金を頂戴したい」。面食らう公爵はホームズから事実を突きつけられて自ら事の次第を白状する。

・本作も珍しくホームズが報酬に対して固執するような素振りを見せる一篇。ただし、本作の場合も純粋に金への執着という意味では無く、ホームズが時折見せる権力者への当てこすり的な意味合いがある。

・ドイルは本作において自転車のタイヤ痕によって自転車の進行方向が分かる、とした。しかしこれは考えれば誰でも分かる事だが、そのようなことは無い。方向性のあるタイヤであっても逆に履かせてしまえば分からなくなる。ドイルはこのような事実の思い違いや勘違いによる間違いを何度となくしているが、延原の書くところのドイル流の「フェア・プレイ」によって書き直すことは無かった。本作の問題についてはドイルは「傾斜のついた場所であれば溝の深みによって方向性を知ることができる」などとこじつけとも言える理由で自説を押し通した。

 黒ピータ The Adventure of Black Peter

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発表年 1904年2月/3月
掲載誌 コリアーズ・ウィークリー、ストランド
ホームズの年齢 41歳
主要登場人物 ジョン・H・ワトソン、ジョン・ホプリ・ネリガン、パトリック・ケアンズ、ホプキンズ
物語の視点 ワトソンによる記述
単行本での掲載順 「シャーロック・ホームズの帰還」6

・本作はドイルお得意の船員が絡んだ事件。ドイルはホームズ以外の短編でも度々船員を中心とした作品を描いているが、これは自身が大学卒業後に一時アフリカ方面行の船の船医をしていた経験が生かされていると言われる。船員(特に当時の)には独特の習慣が多く、紐の結び方や食生活などが事件解決の糸口として使われることがしばしばある。

・ある日ワトソンが一人朝食を食べているとホームズが徐に帰宅してきた。聞けば肉屋に行ってきたという。「ブラック・ピーター」と言われるシー・ユニコーン号の船長をしていたピーター・ケアリーが銛で一突きにされて殺された件を調査しているというので、ホプキンズ警部と共に現場へ向かうことになった。現場にはP.C.のイニシャルのあるアザラシ皮の煙草入れ、大量の株券、J.H.N.のイニシャルのある手帳が残されていた。また現場の小屋のドアには何者かが強引にこじ開けようとした跡が見られた。ホームズは恐らくこじ開けようとした犯人は再度来ると踏み、夜三人で待ち伏せしていると、果たしてジョン・ホプリ・ネリガンなるひょろりとした銀行家の青年を捕まえることとなった。ホプキンズは喜々として逮捕を喜ぶが、ホームズはこの男はブラック・ピーター事件とは関係が無いという。ホームズはその後何日かに渡って船会社などへ電報や手紙をやり取りし、ホプキンズをある日の朝食へ誘った。三人の待つホームズの部屋にはベージル船長を訪ねてきた、という三名の男がやってきた。ホームズ曰くこの中に真犯人がいるという。

・本作の終わりにはホプキンズに対して「自分たちはノルウェイに引っ越していると思う」というセリフがある。これは例によってホームズ物を終わりにしたいドイルが忍び込ませた意図の一つではないかと思われる。本項の最初に記した通り、「帰還」は最初8篇で契約を受けており、ドイルはこれを一月ずつ書いたわけではなく、連載が開始される前か、開始直後くらいまでに全て書き終わっていた。そのため、どれが最後に書かれたものか正確には不明と思われ、このような記述が途中の篇にあっても不思議ではないと考えられる。

 犯人は二人 The Adventure of Charles Augustus Milverton

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発表年 1904年3月/4月
掲載誌 コリアーズ・ウィークリー、ストランド
ホームズの年齢 45歳
主要登場人物 ジョン・H・ワトソン、チャールズ・オーガスタス・ミルヴァトン、レストレイド
物語の視点 ワトソンによる記述
単行本での掲載順 「シャーロック・ホームズの帰還」7

・「黄色い顔」が唯一の完全な失敗とその3にて記したが、本作も見ようによっては失敗と受け取れる内容の一作である。「黄色い顔」でもそうだったが、全編においてホームズの活躍が精彩を欠いており、ワトソン自身も、ホームズがホームズの部屋に招き入れた犯罪者でなす術もなく見送ったのはこのチャールズ・オーガスタス・ミルバートンただ一人だった、と記している。シャーロキアンの間では、ミルバートンはモリアーティを凌ぐ犯罪王と見る向きが多く、グラナダTV版でも本作は2時間のスペシャル枠で放送され、ミルバートンの大物ぶりが描き出された。ちなみに本作は見ての通り「チャールズ・オーガスタス・ミルバートン」が原題だが、延原謙が「犯人は二人」と意訳したことが好評だったからか、この題名を取るものが多い。NHKでもグラナダTV版ではこの題名を採用した。

・ある高貴な婦人から、若いころの過ちである交際の証拠を盾にチャールズ・オーガスタス・ミルバートンから多額の身代金を要求されていると相談が来た。ミルバートンはホームズの部屋を訪れて要求通りに金を払うように言う。それをどうすることもできずに見送る二人。しかしホームズは後を追うように出て行ったが、あまり良い結果は得られなかった。結局ホームズはミルバートンの屋敷から直接証拠の品を盗み出すより外ないと言い出した。二人は覆面をして深夜のミルバートンの家へ忍び込む。しかし、ミルバートンはホームズの事前の調べと違ってまだ就寝していなかった。物陰に隠れて様子をうかがっていると、ある顔を隠した婦人がミルバートンに会うために現れた。二人は驚くべき光景を見ることになる。

・本作の特徴的なところとして、作中でホームズがミルバートンの女中と結婚の約束をしたという部分である。ホームズが女っ気を見せるのは「ボヘミアの醜聞」とこの二作しかない。また、意外ではあるが、この作品で初めてワトソンが口ひげを蓄えていることが判明する。後の映像化ではグラナダTV版も含めワトソン役は口ひげが定番であり視聴者への印象も濃いと思われるが、原作のシドニー・パジェットの挿絵ではよくよく見ると髭の無いものが多い事が分かるのはパジェットにもその事実を知ることができなかったからだと思われる。本作の挿絵ではワトソンに口ひげがあるように見える。

・本作の終わり頃にレストレイドがホームズの部屋を訪ねてきて、事件の犯人はだいたいわかっていて一人はワトソンそっくりだという。それに対してホームズはこの事件には関わりたくない、被害者より加害者に同情する、などと言って協力を拒否するところで会話は切られてしまう。状況から二人が犯人であるとされてもおかしくないのだが、それ以上の言及は特になく読者には消化不良の形となる。最後にホームズが急にワトソンを連れ立ってある店へ写真を見に行き、その中に真犯人らしい人物がおりホームズはワトソンに口をつぐむ素振りをして見せて一応の決着となることで、完全に有耶無耶にはしないように配慮はされている。

 六つのナポレオン The Adventure of the Six Napoleons

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発表年 1904年4月/5月
掲載誌 コリアーズ・ウィークリー、ストランド
ホームズの年齢 46歳
主要登場人物 ジョン・H・ワトソン、モース・ハドソン、ベッポ、レストレイド
物語の視点 ワトソンによる記述
単行本での掲載順 「シャーロック・ホームズの帰還」8

・本作は着想から展開、解決の仕方に至るまでホームズ物として筆致が極まった作品と言え、本作をホームズ譚最高傑作に推す向きは非常に多い。ホームズが本件の解決に至った理由は例によってホームズの類まれなる記憶力にあるとされており、これは他者には真似できない部分であるのだが、事実から真相にたどり着くまでの捜査の方法は行動力があり且つ正しく判断さえできれば誰にでも可能なことで、ホームズ物らしい「青い紅玉」で見せたような読者をあきさせないダイナミックな捜査展開であると言える。また何といっても六つのナポレオン像が次々と壊される、という着想は「踊る人形」や「赤髪組合」のような非常に突飛なもので、これもホームズ物らしく読者を惹きつけるのに貢献している。

・ある夜ホームズの部屋で談笑していたレストレイドは、ふとしたことから今起きているナポレオンの胸像が立て続けに3つ壊されるという事件に悩んでいる、という件を相談する。狂人の犯行だろうという見解を持っていたが、ホームズは興味を示して進展があったら教えてほしいと言ってその日は別れる。果たしてその後レストレイドから4つ目の胸像が壊され、且つ現場で殺人まで行われたことを知らせてきた。ホームズは状況を確認して、胸像の製造元をあたる。胸像は6つ製造されており、残り二つとなっていた。ある夜レストレイドを呼び出して3人である家の庭で待っていると、なんと犯人が目の前でナポレオンの胸像を壊し始めた。レストレイドはすぐに逮捕するが、ホームズは犯人には見向きもせず胸像の破片を調べる。次の晩、三人はホームズの部屋で最後の一個の胸像を目の前にしていた。ホームズは二人の目の前でその胸像を壊し始めた。

・この作品は江戸川乱歩の有名な怪奇小説「吸血鬼」などにも引用されるように、あまりにも有名であるため傑作という評価とは逆に、さほどでもないという評価もそれなりにあり、且つ当時の初期の雰囲気を懐かしむ読者からはやや演出過剰気味の展開に違和感を持つ読者もいたという。ただ、グラナダTV版での本作の扱いを見れば分かる通り、本作がホームズの最高の見せ場であり、類まれなる称賛を受けるべき才能だ、という印象付けが確実になされる作品であることも事実と言える。

 三人の学生 The Adventure of the Three Students

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発表年 1904年6月
掲載誌 ストランド
ホームズの年齢 41歳
主要登場人物 ジョン・H・ワトソン、ヒルトン・ソームズ、バニスタ、ギルクリスト
物語の視点 ワトソンによる記述
単行本での掲載順 「シャーロック・ホームズの帰還」9

・本作は殺人でも傷害でも恐喝でも誘拐でもない、犯罪事件では無い案件を扱った珍しい作品。物語の展開も早く、1日も経過せずに全てが完了する。

・ある件を調査するためにとある大学町に逗留していたホームズとワトソン。そこへヒルトン・ソームズという近隣の大学の教師がなだれ込んできた。明日行われる大学の奨学金試験の問題をひょんなことで誰かに盗み見られてしまい、中止もできず犯人も分からず狼狽していた。ホームズは一旦調べものは中止して早速現場へ向かう。現場には鉛筆の削りカスやピラミッド型の土の塊、テーブルの新しい引っ掻き傷などの遺留物があった。ホームズは部屋の鍵を指しっぱなしにしてしまったバニスタから話を聞いたのち、この試験問題を見る可能性がある三人の学生に直接話を聞いた。ヒルトンには特に進展が得られてないように感じられたが、ホームズはもう解決したかのような口ぶりで試験は実施するように言いつけた。翌朝、早朝に2時間ほど散歩をしたというホームズはワトソンと共にヒルトンの元を訪れる。ホームズはバニスタと少し話をしたのち、或る一人の学生を呼ぶように指示した。

・「大学町」がどこを指すかがシャーロキアンの間でよく話題になる。「有名な」としていることから恐らくオックスブリッジのどちらかだろうとされているが、本作には場所を特定する為には手掛かりがほぼ無く、議論百出となっている。なおシャーロック・ホームズ自身も(マイクロフトもだが)、どちらの大学の卒業なのかで議論になることは多く、両大学の出身者もどちらの卒業かで言い争いになることがしばしばあるのだという。

 金縁の鼻眼鏡 The Adventure of the Golden Pince-Nez

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発表年 1904年7月
掲載誌 ストランド
ホームズの年齢 40歳
主要登場人物 ジョン・H・ワトソン、コーラム教授、アンナ、ホプキンズ
物語の視点 ワトソンによる記述
単行本での掲載順 「シャーロック・ホームズの帰還」10

・本作も「六つのナポレオン」と並んで「帰還」以降の作の中から最高傑作の一篇に数えられる非常に有名な作品。何といってもホームズが少ない物証から犯人の居場所を特定していくに至る経過は消去法による考え方を分かっていたとしてもなかなか常人では辿り着けない秀逸な推理を見せ、関係者全員が見ている前で劇的な形で真犯人が現れるというホームズ物では見慣れた形で締めくくる。本作と同様のトリックは「恐怖の谷」でも用いられることになる。

・ある日ホプキンズ警部がホームズの元を訪れて事件の相談にやってきた。コーラム教授の屋敷で秘書の男が殺され、この男が今わの際に「教授あの女です」という謎の言葉と、金縁の鼻眼鏡を手に残していた。ホームズは実地に検証し、女中たちの話を聞いて、コーラム教授に直接面会した。教授と話をする間、教授がすすめたタバコを大量に吸うホームズ。また昼食が終わった後に再度来る、という言葉を残して教授の元を辞す。ホームズは「すべてはタバコで分かる」と言い、その後再度女中といくつか話をしてから教授の元を訪れた。教授に事件の解決はできるかと聞かれホームズは「たった今です」と答えた。高笑いする教授に更にホームズは続けた「犯人はそこにいます」。

・グラナダTV版の本作はかなりの脚色が加えられている。最も顕著なのは本作がワトソンを相棒としてではなくマイクロフトを相棒として話が展開されることである。これはワトソン役のハードウィックが映画の撮影で参加できなかったことによる。代わってこの作品では、原作のシャーロックの推理を仲良く兄弟で二分する形で推理しあうところも妙である。ドラマではシャーロックに本道を歩ませるために、マイクロフトはドラマオリジナルの設定である女性活動家を追うことになるが、これも最初からマイクロフト自身は容疑者では無い事を分かっていたような演出がされる。本作は最終回から4回前の作品でシリーズが最終盤に入り、ドラマのつくりとして原作に忠実に、というよりはいかに原作の雰囲気を残したまま脚色を加えていくかに重点が置かれたようで、本作も原作と筋は同じながら犯人たちの過去話やオリジナル設定への作りこみが良く表れていた。

スリー・コータの失踪 The Adventure of the Missing Three-Quarter

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発表年 1904年8月
掲載誌 ストランド
ホームズの年齢 42歳?
主要登場人物 ジョン・H・ワトソン、シリル・オヴァトン、ゴドフリ・スタントン、レスリ・アームストロング、マウント・ジェームズ
物語の視点 ワトソンによる記述
単行本での掲載順 「シャーロック・ホームズの帰還」11

・「四つの署名」に続いて探知犬が活躍するエピソード。本作は犯罪では無い失踪事件を扱うが、ホームズが知恵の働く対決相手に尾行したがうまく煙に巻かれてしまい、最終的に選んだ方法が「ずんぐりして耳の垂れた白と茶のぶちの、ビーグルよりは大きくフォクスハウンドよりは小さいぐらい」のポンピという犬を持ち出してきたのだった。ポンピはホームズが予め馬車に仕込んでおいたアニス酒を車輪にかけておいてそれを嗅がせることによって失踪者をつきとめた。パジェットの挿絵でも上記の特徴を良く表した犬の絵が描かれた。

また、本作はホームズ譚唯一のスポーツから題材を取った一篇でもある。物語の中心的題材になっているわけでは無いが、失踪者は学生ラグビー選手ということになっている。ちなみにスリー・クォーターとは現在ではスリー・クォーター・バックという(どちらかというと「クォーター・バック」と略される)ことの方が多く、後ろから二番目のラインで俊足を飛ばしサイドから駆け上がってトライゲッターとして活躍する花形のポジションである。ドイルは本作中で依頼人となるオーバートンの言葉でかなり細かにラグビーの知見を披露している。当時はプロと別れたオックスブリッジを中心としたアマチュアリーグであるラグビーユニオンが発足した当時でもあり、ドイルがこの時期ラグビーに興味があったことは想像に難くない。

・慌てて打ったと思われる支離滅裂な電報を先によこしたケンブリッジ大学の青年ラグビー選手蒹監督のオーバートンは、スコットランドヤードに紹介されてホームズの元にやってきたという。チームの要で責任感の厚い選手であるゴドフリ・スタントンがホテルから試合直前の昨夜突然失踪したとのことだった。ゴドフリは吝嗇な貴族のただ一人の相続人だということが絡んでるかもしれないと、オーバートンはその貴族に失踪の知らせをしたという。ホテルのボーイの話ではゴドフリは失踪前に電報を打ち、更に身元不明の男と一緒に青くなってホテルから走り去ってしまったという事だった。ホームズはホテルに残されたメモ帳の跡やゴドフリの部屋の様子から、ケンブリッジのレスリー・アームストロング博士なる有名な医者のところへ向かう。しかし博士からはぞんざいな扱いを受ける。ホームズは何度か博士を尾行したり周囲の様子を調べたりしたが、結局色よい結果を得られず、このあたりでは最高の探知犬という犬を連れ出して再度尾行を試みる。しかしホームズらを待ち受けていたのはゴドフリに起きた同情すべき悲しい事実だった。

・ホームズに薬物嗜好があるのは有名な話だが、本作の最初にワトソンは、最近暇なのでいつまた薬物をやりだすか分からない、と嘆いている。ホームズが薬物を嗜好する最初の記述は「四つの署名」で早くも描かれておりコカイン7%溶液とご丁寧に内容まで書かれており、更にその後モルヒネなども試していたりする。グラナダTV版ではこれらの描写も原作通りにいくつかの回で再現されており、ワトソンがそれをみてたしなめている。後にこのドラマでは原作にはない薬物との決別のシーンが描かれている(「悪魔の足」にて詳述)。ちなみにNHKで放送された際は、当然と言おうか自主規制に引っかかった模様で注射をするような直接的なシーンはカットされた。

アベ農園 The Adventure of the Abbey Grange

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発表年 1904年9月
掲載誌 ストランド
ホームズの年齢 43歳
主要登場人物 ジョン・H・ワトソン、メリイ・ブラックンストール、タリーザ・ライト、クローカ船長、ホプキンズ
物語の視点 ワトソンによる記述
単行本での掲載順 「シャーロック・ホームズの帰還」12

・本作は本来ドイルが契約していた「帰還」シリーズ12篇の最後となる予定だった作品である。ただし、契約の事情があってもう一篇を書いたことは本項の最初に述べたとおりである。最後だから、というわけだったからでは無かろうが、本作には今までに使用したプロットやトリックが多数仕込まれている。お得意の船員が絡んだ事件であり、ミスリードする事件の発端があり、真犯人をホームズの自室におびき寄せ、さらに最後に真犯人を突き止めながら警察には知らせず、おまけにワトソンへの作品の書き方への批判まで行っている。ちなみに「アベ農園」とは延原謙の訳題だが、やはり「修道院荘園」とした方が分かりやすいだろう。ただしブラックンストールの屋敷が修道院な訳では無い。

・サー・ユーステス・ブラックンストールが屋敷で殺された。そこには火掻き棒で撃ち殺されたユーステス卿の遺体とコルクを荒くあけたワインボトル、ワイン澱の残る三つのグラスが残されていた。ブラックンストール夫人の話と女中のタリーザの話を聞いて不審な点はあまり感じないと考えたホームズは、ホプキンズ警部の言う通り周囲で起きた有名な三人組の物盗りの仕業だろうと推断して屋敷を離れた。ところがホームズは、ワトソンを帰りの汽車を途中駅で突然降ろして「違う気がする」と言って引き返すのだった。ワイン澱の残り具合から夫人が嘘を言っていると考え、ホームズは再度屋敷へ向かって夫人に本当のことを言うように促した。夫人から折良い言葉が得られなかったホームズは船会社に連絡を取って、またしても自室に真犯人を迎えることに成功した。

・ワイングラスの澱のトリックは非常に単純なトリックなので内容を少しずつ変えて後の推理小説などでも多用されるトリックである。また本作の細かいトリックでは、呼び鈴の紐を途中で切っているにも関わらずなぜ呼び鈴に誰も反応しなかったのか?や、蝋燭の火を持った人間が外の人間の様子を見ることはできるか?など初歩的な謎解きが本作には多い。

第二の汚点 The Adventure of the Second Stain

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発表年 1904年12月
掲載誌 ストランド
ホームズの年齢 32歳?
主要登場人物 ジョン・H・ワトソン、ベリンジャ卿、トリローニ・ホープ、ヒルダ・ホープ、レストレイド
物語の視点 ワトソンによる記述
単行本での掲載順 「シャーロック・ホームズの帰還」13

・本作は、「帰還」シリーズの最終作として、そして今度こそホームズ物とお別れ、としてドイルが書いた一篇である。本作の冒頭の書き出しは、本当は前作のアベ農園事件で終了にするつもりだったけど、以前から何度も機会が有れば発表すると言っていた「第二の汚点」事件についてだけは発表したいとホームズに願い出てようやく許しをもらったので最後として書く、という形で始まっている。また「引退」したホームズは、既にロンドンを引き払い、サセックス州の高原で研究と養蜂に打ち込んでいて、ホームズ物が世に出ると既に引退したのに名前が出ると厭わしいから、などという理由でこれ以上ホームズ物を世に出すと嫌がった、ということになっている。

なおこの「第二の汚点」についてはいわゆる「語られざる事件」として、「海軍条約文書事件」と「黄色い顔」の二作で名前が登場している。前作でも触れられているうえに、本作の冒頭でも書かれている通り、本作は年代を特定して語ることができない、としていて発生年については多数の説がある。紹介のされ方から、「第二の汚点」という事件は二件、あるいは三件起きていると考える向きも存在する。

・総理大臣ベリンジャ―卿と欧州担当大臣トリローニ・ホープ卿が緊急の要件とのことでホームズを訪問する。もし外部に漏れれば欧州全体が紛争になる重要文書が今朝ホープ卿の鍵のついた箱の中から紛失したという。大臣の話ではその鍵箱から目を離したのは就寝中の4時間だけで、妻と女中と執事しか触ることができず、女中と執事は長年勤めている信頼できる者と言った。ホームズは国際的スパイの可能性が高いと考え、早速可能性の高い三人のスパイを調べようとする。ワトソンはその三人の名前を聞いたとき、新聞を見ながらそのうち一人は今朝殺されたと言うと、ホームズは驚愕した。そうしている間にホープ卿の妻であるヒルダ夫人がホームズの部屋を訪れる。夫人からの、夫を心配しての質問にほとんど答えないホームズは、夫人を帰して、その後3日に渡って殺されたスパイの周辺を洗うが状況が好転しない。すると、殺人を調べているレストレイド警部から殺人現場の血痕が絨毯と床とで何故か分かれているから見てほしいと連絡がきた。ホームズはレストレイドに見張りの巡査を詰問するように言うと、その留守の間に絨毯をはがし、急ぎ床を調べ始めるのだった。

・本項冒頭でも記したが、本作はこのような書き出しで始まっているにも拘らず、読者の反応はいまいちだった。やはり「最後の事件」のように間違いなく助かる道が無いかのような書き方でもなく、物語が「引退」に絡んだものでもなく、そもそも「空家の冒険」でひょっこり帰ってきてしまうようなホームズは、この程度では終わらない、と読者から評価を受けるに至ってしまったのではないだろうか。とはいうものの「ウィステリア荘」で再びホームズ物が動き出すまでは3年9か月もの時間を必要とした。

その6へ続く

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