シャーロック・ホームズを主人公とする小説作品 その2(1890~92)
2016/03/24
前項で述べたように、ドイルはホームズ物を「緋色の研究」のみで終わりにしようとしていた。ところが発表から2年後、突然アメリカの雑誌「リピンコット」の編集者が、このホームズに目を付けて新作を前金で依頼してきた。それが「四つの署名」である。
この「四つの署名」が好評で、後に「ストランド」誌が連載を依頼するようになった。延原謙は訳書のあとがきで、アメリカ人が「ホームズを生んだのはアメリカ人」と胸を張っている、と揶揄している。
本項では「四つの署名」から単行本「シャーロック・ホームズの冒険」に収録された全編、及び「~の思い出」の最初の一篇である「白銀号事件」までを取り上げる。
概要
- 1 1890年
- 2 1891年
- 3 1892年
- 3.1 青い紅玉 The Adventure of the Blue Carbuncle
- 3.2 まだらの紐 The Adventure of the Speckled Band
- 3.3 技師の拇指 The Adventure of the Engineer's Thumb
- 3.4 花嫁失踪事件 The Adventure of the Noble Bachelor
- 3.5 緑玉の宝冠 The Adventure of the Beryl Coronet
- 3.6 椈屋敷 The Adventure of the Copper Beeches
- 3.7 白銀号事件 Silver Blaze
- 3.8 こんな記事も
1890年
四つの署名 The Sign of Four
発表年 | 1890年 |
掲載誌 | リピンコット |
ホームズの年齢 | 34歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、メアリー・モースタン、サディアス・ショルトー、ジョナサン・スモール、トンガ、アセルニ・ジョーンズ、アーサー・モースタン、ジョン・ショルトー |
物語の視点 | ワトソンによる記述 ※ただし第十二章の大半(物語全体の1/5程度)は実質的に犯人による回想録 |
単行本での掲載順 | ※長編 |
・シャーロック・ホームズ物の推理小説第二弾となる。また最初で最後のアメリカの雑誌で発表された作となる。時系列的には前作から時間を経たことになっており、本作の依頼人となったメアリー・モースタンとワトソンは本作の最後で結婚することになり、一旦ホームズとの共同生活に終止符を打つ。ホームズが麻薬をやっていることが描かれる最初の事件でもある。
・物語は12章に分かれているが、前作と同様、実質的に最後の第12章が犯人の犯行に至るまでの背景を延々と語る、一つの物語となっている。
第一章~十二章途中までが事件の発生から逮捕に至るまでが描かれる。依頼者であるメアリー・モースタンがサディアス・ショルトーなる人物から多額の遺産を渡したい旨の手紙があり、処遇をどうすればよいかホームズに依頼してきた。メアリーがサディアス、ホームズ、ワトソンらと共にサディアスの兄を訪問すると、そこでサディアス兄が特殊な毒矢で殺害されており、相続されるべき遺産は持ち去られていたことから事件が始まる。ホームズは現場に残された特異な足跡や毒矢から推測し、犬のトビーや「ベーカーストリートイレギュラーズ」を駆使して犯人を追い詰め、遂に犯人をテムズ川のランチによる追跡で捉えることに成功する。
第十二章途中より捉えられた犯人が、自身の独白の形で本件に至った経緯を詳細に語る。インドに従軍していた犯人が現地兵と協力して城の財宝を奪ったが、露見しなかった財宝強奪ではなく財宝の運び屋を殺した罪で収監されることになった。収監先の管理者であったメアリーとサディアスの父らの博打の支払の弱みを握り、財宝の分け前を条件に釈放を求めた。しかし、サディアスの父は財宝だけを奪ってイギリスへ帰国し、犯人はサディアスの父への復讐と財宝の奪還を胸に帰国を果たす事になる。
・ホームズ物の第二作となり、前作に比して反響があった。翌年イギリスで創刊する「ストランド」の編集者の目に留まり、6月号より読み切り物の掲載が始まって以後の「ストランド」を支える連載小説となっていく。
・本作でも題名をどのように翻訳すべきかに議論がある。リピンコットに掲載された際の原題名は「The Sign of the Four; or, the Problem of the Sholtos」だった。しかし、その後イギリスで単行本発刊時に同題に直される。Fourの前のtheが無くなることによって、題名だけでは四人であるのか、あるいは他の意味があるのかを分からなくさせて、読者に想像の幅を広げさせることになった。また、邦題においてはSignを署名、と断定的に訳すべきか疑問が呈されており、こちらもFourと同様に何の”サイン”であるのかを題名からでは分からなくするために「四つのサイン」とした方が原題の意図に近くなるだろうと考えられている。ただし、日本では前項の通り、延原謙の訳に従う向きが多く現在でも「四つの署名」としていることが多い。
1891年
ボヘミアの醜聞 A Scandal in Bohemia
発表年 | 1891年7月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 33歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ボヘミア国王、アイリーン・アドラー |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」1 |
・記念すべきシャーロック・ホームズ物、最初の短編である。ストランド誌の編集者が前年の「リピンコット」で掲載されたホームズ物を見て、一話完結の読み切り連載を依頼してきた。以後、ドイルは全てのホームズ物を「ストランド」で発表することになる。「ストランド」は本作以降のホームズ物の連載によって売り上げを急速に伸ばして、競合他誌などに似たような推理小説物であるオースチン・フリーマンのソーンダイク探偵が掲載されたり、アーサー・モリスンのマーチン・ヒューイット探偵物などの追随者が相次ぐことになり、一大探偵推理小説ブームを巻き起こすこととなった。
・本編は、ボヘミア王(「ボヘミア王」は現実には存在せず、誰であるかは不明とされている)自身が、自身の結婚を控えて、若いころの失態として身分の釣り合わない女性との交際の証明である写真をその女性か取り戻してほしいという依頼で始まる。要するにホームズはわずか3回目で窃盗の依頼を受けることになる。後、窃盗紛いの依頼や、捜査上の手段としてホームズは超法規的措置をしばしば取ることになる。ただし、最終的にこの奪還には失敗するものの、依頼は果たされた、と王は礼を述べた。
・本作で最も有名なのは対決相手となるアイリーン・アドラーという女性の存在である。ホームズが生涯「あの女」と称し、女性の知性を生涯蔑むことをしまいと決意した一件だった。本編の最後に、ホームズはボヘミア王からの謝礼として「あの女」の写真を所望し、生涯それを持ち続けた。ホームズ自身は女っ気が無い事で有名だが、本編の「あの女」と、捜査の経緯上どうしても女を利用する必要のあった後の1篇を除くと他にそれらしい記述は無い。
赤髪組合 The Red-Headed League
発表年 | 1891年8月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 33歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ジェベズ・ウィルスン、ジョン・クレー |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」2 |
・シャーロック・ホームズ物の中でも最も有名な短編の一つ。なお題名は色々な訳がされておりRed-Headedは赤毛、Leagueは連盟、クラブなどとも訳される(直訳すれば「赤毛連盟」)。
・本編は、依頼人であるジェベズ・ウィルスンが混乱した様子でホームズとワトソンの下を訪れるところから始まる。楽で且つ高給な職を得たジェベズの職場がある日突然閉鎖されたという内容だった。ホームズは経緯を聞いて余りの奇抜さに興味を示し、驚くべき方法で謎を解き明かして、犯人が将に犯行をなさんとしているところに関係者全員で対面させるという劇的な展開を演出する。
・推理小説物のプロットの一つとして有名な「赤毛トリック」とは本編から生まれたものである。犯人が犯行を行いたい場所から何らかの方法(奇抜なことが多い)でその場所の主をおびき出し、不在の間に犯行を行う、というものである。このトリックは肉付けに自由度が高く読者の目を引く展開にしやすく、ドイル自身も気に入ったようで後に2回も同じ手口を用いてホームズ譚を書いている。
花婿失踪事件 A Case Of Identity
発表年 | 1891年9月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 33歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、メアリー・サザーランド、ジェームズ・ウィンジバンク |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」3 |
・少ない事実と物証の中から真実を導き出して、まんまと犯人をホームズの部屋に誘い込む、というホームズ物で良く使われるプロットの作品である。
・本編は、依頼人であるメアリー・サザーランドが、将に婚儀を挙げようとした教会で婚約相手が失踪を遂げ、その失踪者を探す依頼を受けるところから始まる。ホームズはメアリーの身辺を聞き出し、関連個所へのいくつかの問い合わせという手段だけで真相へたどり着いた。結末として犯人は法の手には掛からずただ逃げるだけの描写で終わり、更にホームズのセリフによってメアリーには真相が告げられない、という形で物語が締めくくられる。ホームズ物ではしばしばみられるが、ホームズは決して犯人を警察や司法に委ねる存在では無い事が見て取れる。
・本作はグラナダTVでは映像化できなかった一篇の一つである。
・実は、「赤髪組合」よりも先に執筆されていたことが分かっている。これはストランド誌の編集者が、同時の送られてきた二編を、順番を間違えて掲載してしまったことが原因である。
ボスコム谷の惨劇 The Boscombe Valley Mystery
発表年 | 1891年10月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 35歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、アリス・ターナー、ジェームズ・マッカーシー、ジョン・ターナー、レストレイド |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」4 |
・良く対比されるホームズと「安楽椅子探偵」との違いが見て取れる作品の一つ。現場の状況を意に介さずに泥につかりながらも真実を追うホームズの姿が描かれる。
・ボスコム谷で財産を持って暮らすターナー家とマッカーシー家の対立する二つの家の間で起きた殺人事件の真相を追う。ターナー家当主のジョンの娘アリス・ターナーと、マッカーシー家の当主チャールズの息子のジェームズは恋仲であり結婚を決意していた。しかしそのようななかチャールズが谷の沼地で他殺体となって発見される。警察は息子のジェームズを犯人として捕えたが、アリスから依頼を受けたホームズは、現場の状況から犯人は別にいると考えていた。ホームズはまたしても真犯人を自室におびき出して真相を吐露させることに成功している。そして本件も真相を知ったうえで、犯人を警察に通報せず、自身の正義を貫くことになる。
・トリックとしては凡庸なものだが、事の真相に情を感じるあたりがいかにもホームズ物らしい一篇と言える。
オレンジの種五つ The Five Orange Pips
発表年 | 1891年11月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 33歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ジョン・オープンショウ |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」5 |
・依頼人を殺され、最終的には犯人を捕らえられなかった、ホームズ物の物語としては珍しい失敗談。ただし失敗はしているものの、読者の溜飲が下がるように物語は結末を迎えることになる。ホームズ自身の推理は完成しているため、推理の失敗とは解釈されない。ホームズ物ではこのような結末を迎える話が他にいくつか存在する。
・オレンジの種が五粒入った奇妙な封書を受け取ったジョン・オープンショウの伯父が殺され、更に依頼人自身も同一の封書を受け取る。伯父の「KKK」と叫んだ言葉が依頼人には分からなかったが、ホームズは犯人の正体を知り、更に封書の消印によって犯人の所在を探し出すことに成功する。しかし、時すでに遅く依頼人は殺されてしまった。ホームズは復讐を誓って、自ら犯人と同様に犯人に対してオレンジの種を五ついれた封書を送り付けるのだった。
・本編にはドイルによって描かれなかった所謂「語られざる事件」のいくつかが、ワトソンの記述という形で登場する。曰く、「パラドールの部屋事件」、「素人乞食協会事件」、「ソフィ・アンダースン号喪失事件」「グライス・ピータースン一家事件」「カンバウェル毒殺事件」と言ったものである。
唇の捩れた男 The Man with the Twisted Lip
発表年 | 1891年12月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 33歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ネヴィル・セントクレア、ネヴィル・セントクレア夫人 |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」6 |
・本編も最後に劇的な形で真犯人を関係者の前で披露するというプロットが採用され、ホームズ物としては典型的なパターン。他にも中々真相に至れず一晩中考え続ける姿や、殺人事件を思わせて実際にはそのようなことが行われていないという真相が明かされる点も、後にいくつかの作で登場する形である。
・ネヴィル・セントクレア夫人による依頼で阿片窟に入り浸って捜査しているホームズを、別件でたまたま来ていたワトソンが鉢合わせするところから始まる。セントクレア夫人の依頼によると、たまたま通りかかった阿片窟でロンドンで勤務しているはずの夫の姿を見たため、警官を伴ってそこへ乗り込むと夫の代わりにブーンという身なりの汚い乞食がおり、しかも夫が子供らの為に買ったと思われる土産物が見つかるとともに川側の窓枠に血痕がついていた。ブーンは逮捕されるが、夫の行方は全く不明となった。しかし数日後、夫人の元にネヴィルから無事である旨の手紙が届いたことにより、ホームズは真相を知ることになる。ネヴィルは意外な場所にいたのだった。
・所謂すり替わりトリックの典型的な作品。これはホームズ物に限らず推理小説では多用される例である。しかしながら前述の通り、ホームズ物としては劇的な舞台設定によって見るものを引き込ませた。
・シャーロキアンの間でしばしば話題になるワトソンの名前問題が発生する最初の作品。夫人(恐らくメアリー・モースタン)から「ジェイムズ」と呼ばれるが、ワトソンのファーストネームはジョンである。シャーロキアンの間での定説としては、ワトソンのミドルネームは恐らくHamishで、英語にするとJamesとなることから、夫人はミドルネームを英語風に読んだのだろう、というものである。
1892年
青い紅玉 The Adventure of the Blue Carbuncle
発表年 | 1892年1月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 33歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ヘンリー・ベイカー、ジェームズ・ライダー、ピータースン、ブラッドストリート |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」7 |
・これぞホームズ物と絶賛される最も有名な短編の一つ。開始から物語の決着に至るまで、いかにもホームズ物らしい突飛な展開と推理によって確実にホームズが真相を突き止めていく姿が描き出される。また本作において被害者の一人と言えるヘンリー・ベイカーの持ち物であった帽子に対する推理はホームズ物のシーンでは最も有名なシーンの一つであり、ホームズのアブダクションを応用した推理の典型的な例として広く知られている。この推理は、将にドイルがホームズのモデルとしたベル博士の推理の特徴の応用であったと言える。
・クリスマス前夜、便利屋のピータースンが偶然喧嘩の現場で拾ったガチョウと帽子の処遇に困り、ホームズの下へ持ち込んできた。ホームズは、帽子だけ受け取ってガチョウをピータースンに勿体ないからと与えてしまう。そのガチョウの内臓から、紛失または盗難に遭って所在に懸賞のかかっている「ブルーカーバンクル」が出てくる。ホームズは状況を推理し、実地に検証して真相を手繰り寄せ、遂に盗難の犯人を自室へと招き入れることに成功する。本編も最終的に犯人を警察には突き出さず、冤罪で逮捕されている男の無罪証明だけを手に入れる形で終わっている。
・本作も例によって邦題をどうするかで議論がある。本項では延原謙の訳に従い「青い紅玉」としているが、紅玉とはルビーの事であり、本来はカーバンクルを指さない(この誤訳を元に「青いルビー」とした作品も存在する)。カーバンクルとはザクロ石(ガーネット)を丸く磨いた宝石を指すため、昨今では「青いカーバンクル」とする訳が多くなっている。またガーネットには青いものは存在せず、ドイルがなぜこのような題名を付けたか意図は不明。この宝石の出自を語る部分があるが、ほとんどが現実にはない創作であり、珍しさを強調するため架空の存在として生み出したと考えるのが妥当だろう。
まだらの紐 The Adventure of the Speckled Band
発表年 | 1892年2月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 33歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ヘレン・ストーナー、グライムズビー・ロイロット |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」8 |
・ストランド誌の27年3月号におけるホームズ短編物での1位、「オブザーバー」誌の読者の選ぶホームズ物1位に選ばれた名実ともに最高傑作と言える作品の一つ。本作は珍しくほぼ犯人が判明している状態から始まり、いかにして犯行が実行されるのかを解き明かす形で物語が進行する。この際、ホームズの何物も厭わない実行力と行動力が読者に示されることになる。
・依頼者のヘレン・ストーナーは、母と姉が病死した夜に聞こえた口笛が聞こえたことを恐れてホームズの元へやってきた。ヘレンは、継父のロイロット博士はヘレンが結婚した場合、多額の財産を渡さなければならない約束となっていることが母と姉の死に絡んでいるものと推測している。ヘレンが辞した後に続いてロイロットがホームズの元へ現れ、対決姿勢を露わにする。ホームズはロイロットの不在を突いてヘレンの周囲をくまなく探索し、犯行が行われるだろう夜を特定して、ワトソンと共に寝ずの番をするのだった。
・本編も犯人は警察の手には渡らないが、確実に正義が行われたというカタルシスと、当時としては非常に斬新な真相を解き明かすストーリーが読者に喜ばれた。現実には蛇が牛乳を飲むのか?蛇に音は聞こえるのか?といった細かい整合性が取れない部分はあるが、それを補って余りある展開に読者は引き込まれたと言えるだろう。
・本件も「四つの署名」のような邦題の訳に対する問題がある。”Band”は英語としては紐とも楽団とも取れ、ホームズもそれに悩むのだが、「紐」と直接的に訳してしまうと英語的なモヤモヤ感は生まれない。ただ延原が訳す前に紹介された頃は、真相をそのものズバリのタイトルにしてしまい、完全ネタバレで意訳してしまった例が多かったとのこと。
技師の拇指 The Adventure of the Engineer's Thumb
発表年 | 1892年3月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 35歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ビクター・ハザリー、ライサンダ・スターク、ブラッドストリート |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」9 |
・本件はサスペンス仕立てのホラー的側面を持つ一篇であり、且つホームズの推理がほとんど見られないという珍しい作品。また、ワトソンが依頼人を仲介した珍しい例でもある(他に一篇ある)。
・若手水圧技師のビクター・ハザリーは親指を根元から切断された痛々しい状態でワトソンの診療所へ運ばれてきた。話によると、ライサンダ・スタークなる人物から、高額だが非常に奇妙な依頼を受けて水圧機を修理に向かった。ハザリーは修理の現場で水圧機の本当の用途に気づくものの、スタークに追い詰められて斧のようなもので親指を切り落とされてしまった。ビクターはいつの間にか助けられてワトソンの元へ、そしてワトソンは急ぎホームズとブラッドストリートを連れて件のスタークの屋敷へ向かう。ところが、なんとその屋敷はもうもうと黒煙を上げて燃え盛っている最中だった。
・本編でホームズが推理する、行って帰ってきて距離感が分からなくなる、というトリックは、簡単ではあるが実際に遭うと分かりにくく、今日にいたるまで良く使われるトリックである。また、被害者となったハザリーが、本件で自分には何も残らずただ親指だけを失ってしまった、と嘆くのに対して、ホームズが発する「経験です」という言葉は、ホームズの考え方を端的に表す至言と言える。
花嫁失踪事件 The Adventure of the Noble Bachelor
発表年 | 1892年4月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 32か33か34歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ロバート・セントサイモン卿、へティ・ドーラン、フランシス・ヘイ・モートン、レストレイド |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」10 |
・本作はドイルが多用するアメリカ絡みの作で、「恐怖の谷」などでも多用されたアメリカ訛りの言葉がホームズの推理に一役買う形となっている。最も延原謙はアメリカ訛りを得意げに連発するドイルに閉口して翻訳が難しかったことをあとがきなどで記述している。
・セントサイモン卿はアメリカで知り合ったヘティ嬢との結婚式の最中に花嫁が失踪するという目に遭い、ホームズへ捜査の依頼をしてくる。ホームズが結婚式の際に起きたことを細かに改めていく中、レストレイドは花嫁が渡されたメモにあったイニシャルの女が以前セントサイモン卿と関係があったことからそれを疑う。ホームズはその数時間後、祝宴の準備をした上で関係者全員を集めた。集められたのはセントサイモン卿と失踪したはずの花嫁、そしてアメリカ人の一人の青年だった。ホームズは状況を整理しただけで驚くべきスピードで真相にたどり着き、例によって関係者を集めて真相を披露するという典型的な形で結末を迎える。
・ホームズの本作での推理は、後に「ブルース・パティントン設計書」で語られる、可能性を一つずつ消去していき最後に残ったものがどんなに現実離れしていてもそれが真相である、という理論を実践する例となっている。
・本作の邦題は多数あり「未婚の貴族」「独身の貴族」「誇り高き独身者」などがある。またグラナダTVのNHK放映時の邦題である「未婚の貴族」で描かれる内容は、本件から原案を取ってはいるものの話の展開は全く異なりほぼオリジナルの内容となっている。推理ドラマというよりはホラー要素の強いサスペンス仕立ての冒険ドラマと言えるつくりになっている。
緑玉の宝冠 The Adventure of the Beryl Coronet
発表年 | 1892年5月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 36歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、アレグザンダ・ホールダー、アーサー・ホールダー、メリー・ホールダー、サー・ジョージ・バーンウェル |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」11 |
・例によって本作も物語の謎解きをする直前に依頼人に対して劇的な形で事件を解決して見せる形。この作品に描かれる真相は、真犯人を依頼人自身の思い込みによって隠してしまう推理物では典型的な形である。
・銀行主のアレグザンダ・ホールダーの依頼で、とある高貴なお方より預かった宝冠が息子のアーサーの手によって傷づけられ、さらに付いていた3つの宝石が紛失してしまったので、その紛失した宝石を探してほしいという者だった。ホールダーの身辺を確認し、さらに同居のアーサーの従妹メアリーの言動から真犯人は別にいることを突き止める。宝石は不逞の者によって既に売られてしまっていたのだった。
・本編は珍しくホームズが依頼人に具体的な金額で報酬を要求するシーンが描かれる(意味があって描かれる)。また、物語の中核に「四つの署名」などのように義足の男が絡む話はドイルの十八番である。
・宝石は戻ったものの、捻じ曲げられ傷ついた宝冠が残り、ホールダーは本当に解決したと考えているのかという疑問は残る。
椈屋敷 The Adventure of the Copper Beeches
発表年 | 1892年6月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 35歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ヴァイオレット・ハンター、ジェフロ・ルーカスル、トーラー、ファウラー |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの冒険」12 |
・本編はプロットとしては「まだらの紐」と似ており、犯人が分かっている形で話が進行し、ミステリーというよりはサスペンス調のストーリーとなっている。ただし、物語の最後にキーとなる人物が別に存在し、その者から謎が解き明かされる。
・ヴァイオレット・ハンターは、ぶな屋敷のジェフロ・ルーカスルなる人物の依頼で、破格の報酬ではあるがその条件が非常に奇妙な家庭教師の働き口へ行くべきかその是非をホームズに相談に来る。ホームズは、判断できないが何かあったら連絡をするように言いつけて、ハンターはぶな屋敷へ向かう。果たしてハンターは遠からず奇妙な連絡をよこした。ぶな屋敷には決して表には出ない謎の人物が秘匿されているようだった。その理由を探るべく、ホームズらもぶな屋敷へ向かう。物語の最後に真相を知る人物からの告白で事件は解決する。また犯人が動物によって害される点は「まだらの紐」と同じプロットである。
・ワトソンの書くホームズ物のストーリー内容に初めてホームズが具体的に難癖をつける描写がある。以後何回かそのような表現があり、最終的にワトソンと口論になって「自分で書いてみろ」と呆れられ、実際に自分で書く羽目になってしまう。そのため、ホームズが自身の視点で記載したことになっている作品が二編存在する。
・ドイルは6月号を以てホームズ物の連載は終了する予定であった。しかし本作のモチーフを母から得て、まだストーリーが尽きていないことを悟り連載を続ける決心をした。本作までの短編が12編が1892年10月に発刊される単行本「シャーロック・ホームズの冒険」の内容である。次回の連載は12月号から再開され、これ以降の12編は「シャーロックホームズの思い出」に入れられる。
白銀号事件 Silver Blaze
発表年 | 1892年12月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 36歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ロス大佐、フィツロイ・シムソン、サイラス・ブラウン、グレゴリ |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」1 |
・シャーロック・ホームズ短編の第二シリーズの最初で、競馬を題材にした有名な一篇。後にドイルは自分は競馬に詳しくなかったと述懐しているように、競馬に知識が多少あれば物語が成立しないと思われる個所がいくつか存在する。しかしそれを補って余りある、最後の劇的な真犯人の登場という展開に読者は称賛を送った。
・ロス大佐は次のレースに出場する競走馬「シルバー・ブレイズ」を捜してほしいとホームズに依頼してきた。奇妙なことに、馬の調教師は厩舎から離れたところで鈍器のようなもので殺され、また血の付いた小さなメスが残されていた。警察は以前から厩舎を嗅ぎまわっていた予想師の男を怪しんだが、ホームズは厩舎での従業員の証言や殺害現場の状況から犯人は別にいると想定する。ロス大佐は進展の無いままレース当日を迎えて不満を漏らすが、ホームズは馬は出走するし、真犯人もこの場で披露するという。
・本作にはいくつか有名なシーンがある。まずホームズらが、乗っている汽車のスピードを何も参照しないでホームズが言い当てるシーンがある。このシーンと似た描写を、有名な鉄道紀行作家の宮脇俊三が応用して書いている(ホームズは電柱の数、宮脇はレールの音でスピードを計算した)。またホームズが厩舎での聞き取りで従業員らが飼っている犬が鳴かなかったことに注目して推理した。これは「吠えない犬のトリック」と言う大変古典的なトリックで、有名なヴァン・ダインの二十則で禁じ手の一つとして挙げられている。他に、従業員が匂いの強いカレー料理を食べたことで薬を盛られたことに気づかない、という手法も良く使われるトリックである。
その3へ続く