シャーロック・ホームズを主人公とする小説作品 その3(1893)
2016/03/29
前年の「ストランド」6月号にてホームズ物の連載を打ち切る予定だったドイルは、最後に書いた「椈屋敷」でまだ書けると考えを翻し、もう1年書くことにした。ただし、そのためにドイルはストランドに対して1000ポンドという当時としては破格の原稿料を要求し、それが呑まれてしまい書かざるを得なくなったという背景もあった。
ドイルは前年の連載で自身の推理探偵小説家としての地位を確固たるものとし、ファンから大変な量のファンレターをもらう事になった。ところが、そのファンレターの中には、前項でも触れたような細かい矛盾を突いて非難するようなものや、ホームズの連載を絶対にやめるなといったようなものまで含まれており、ドイルはいささか閉口してしまった。
ドイル自身は自分を歴史小説家として任じており、いわば「食うため」に手をつけたホームズ物は、少なくとも連載から日が経たないこの頃はそもそも気の進まない仕事だったようだ。
ドイルはその自分の思いを当年の最後の連載である「最後の事件」によって、見事に自身の思いを達成することになる。そして、その時点ではまだドイルは、自身の半生をホームズに食いつぶされるようになるとは思っていなかったに違いない。
本項では、前年12月より開始されたホームズ短編集の第二シリーズである「シャーロック・ホームズの思い出」の後11編を紹介する。
概要
- 1 1893年
- 1.1 ボール箱 The Cardboard Box
- 1.2 黄色い顔 The Yellow Face
- 1.3 株式仲買店員 The Stockbroker's Clerk
- 1.4 グロリア・スコット号 The Gloria Scott
- 1.5 マスグレーヴ家の儀式 The Musgrave Ritual
- 1.6 ライゲートの大地主 The Reigate Squire
- 1.7 かたわ男 The Crooked Man
- 1.8 入院患者 The Resident Patient
- 1.9 ギリシャ語通訳 The Greek Interpreter
- 1.10 海軍条約文書事件 The Naval Treaty
- 1.11 最後の事件 The Final Problem
- 1.12 こんな記事も
1893年
ボール箱 The Cardboard Box
発表年 | 1893年1月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 35歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、スザン・カシング、ジム・ブラウナ、レストレイド |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」2→欠番→「最後の挨拶」2 |
・本編はドイルの意向から後の単行本出版時に影響を与えた一篇である。当時の倫理的観点、即ち題材の根幹になる不倫に対する考え方を慮って、ドイルは単行本化した後に取り下げるように願い出て、一時本編は未収録扱いとなった。しかし、後年になって不倫に対する考え方も変わり、ドイルは単行本への再録を承諾し、「最後の挨拶」へ収録されることになった。
・スザン・カシングの元へボール箱に入って粗塩に漬けられた二つの切り取られた人間の耳が送り付けられてくる。レストレイドはホームズとワトソンを連れ立ってスザンの元へ急ぐ。ホームズは箱と耳、スザンの顔、飾られた写真を見てだいたいの見当を付け、郵便を一通送り、スザンの妹の一人サラの家へ行く。しかしサラはホームズに会う前、つまりスザンの元へボール箱が送られてきたことを聞いてから昏倒しており、面会できなかった。ホームズは、レストレイドに犯人の名前を書いた名刺を渡して、逮捕するように言ったのだった。事件は男女の愛憎の結果に生まれた悲劇だった。
・本編の冒頭に、ワトソンが無言で新聞を読んでいてしかめっ面になって新聞を放り出すまでのワトソンの考えをホームズが全て言い当ててしまうというシーンがある。このシーンはホームズのアブダクションを用いた考え方を示す有名な部分だが、ドイルは単行本から本編を落とすにあたってこの部分だけは惜しいと感じたらしい。このシーンはまるまる、後に書かれる「入院患者」に引っ越しさせられている。そのため、出版社によってこのシーンが本編にあったり、「入院患者」にあったり、あるいはどちらにも載っていたりする違いがある。
・グラナダTVの著名なテレビシリーズは本作を以て(結果として)最終回となった。主演のジェレミー・ブレットの病状が悪化し、残りの話数を映像化する前にブレットが他界してしまったためであったが、本編の最後にホームズとワトソンが犠牲者となった二人の遺体を発見するシーンで、原作と全く同一のセリフで締めくくられる。偶然ではあったが、いかにも最終回らしい哲学的表現に富んだセリフによって、世界で最も人気を博したテレビドラマシリーズは終焉を迎えた。ただし、収録自体は本作の放送回一回前の「マザランの宝石」(後の「三人ガリデブ」にて詳述)が最後の収録だったとのこと。この回ではホームズはほとんど出ず、兄のマイクロフトが解決したことになっている。日本ではこの放送回が最終回として放送された。
黄色い顔 The Yellow Face
発表年 | 1893年2月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 34歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、グラント・マンロー、エフィ・マンロー、 |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」3→2 |
・本編はホームズ唯一の完全な失敗談である。内容的にはホームズの元を訪れた依頼人との一度の話で大体の目星を付け、実際に行って直接現場へ乗り込むと意外な事実が発覚した、という物なのだが、行く前にだいたいの推理の内容をワトソンへ語る部分のあたり、最初からホームズの考えにミスがありそうな違和感を覚える。
・グラント・マンローは妻との散歩中に、引っ越してきた家の二階から「黄色い顔」が覗いていることに気づいた。その日の晩に妻がその屋敷へ行き、さらにたびたび出入りしていることにも気づいた。以前妻から100ポンドを用立てるようお願いされたこともあり、グラントはその家で何が起きているのかをホームズに依頼してきたのだった。ホームズは真相の目星をワトソンに話してから現場であるノウブリへ行く。グラントと三人でその家の前に来た際に、その家から出る妻を見るにつけグラントは逆上してその家へ押し入る。しかしそこには意外な事実がホームズ達を待ち受けていた。ホームズは物語の最後にワトソンに対して、もし自分が過信したり努力を惜しむようなことがあったら一言「ノウブリ」とささやいて欲しい、と言って物語は終わる。
・本作は数少ないホームズの推理が外れたという点でも特筆すべきであるが、冒頭でグラントが一時置いていったパイプを見て依頼人の素性をホームズが言い当ててしまう描写が非常に有名である。このシーンは藤子・F・不二雄作「ドラえもん」3巻「シャーロックホームズセット」で再現されている。「ドラえもん」ではよくあるが、本編と違って劇画調の全く違う筆致で書かれているため印象的なシーンである。
株式仲買店員 The Stockbroker's Clerk
発表年 | 1893年3月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 34歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ホール・バイクロフト、ペディントン兄弟 |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」4→3 |
・本編はホームズ譚の中でも最も短いうちの一篇。物語の時間進行も非常に早く、ホームズが当時同居してなかったワトソンの元へ行って彼を連れ出し、依頼人と共に現場へ行く間に依頼人が事の次第を話して、行先のまさにその現場で事件が起こってすぐに幕切れとなる。
・ホール・バイクロフトは勤め先が潰れて就職先を探すうちに一社の株式仲買業者から採用の知らせを受けた。その採用面接の前日にアーサ・ピナなる者が現れ、ホールに対して更に高額を払うからうちの会社へ来てくれと願われる。ホールは怪しみつつも前金をもらったこともあり、そちらへ鞍替えして言う通りに事務所のあるバーミンガムへ行った。そこではアーサ兄のハリイという男が机と椅子だけの部屋で待ち構えており、膨大な量の仕事をホールに言いつけてまた来るように言った。何回かハリイと会ううちに金歯の特徴からハリイとアーサは同一人物ではないかと疑い、なぜ意味不明な狂言に自分が巻き込まれたのかを解明するためホームズに依頼をしてきたのだった。ホームズらが、ハリイと面会すると様子が明らかにおかしい。一旦隣の部屋へ中座したハリイの様子がおかしいことに気づいたた三人は、隣の部屋へ押し入ると将にハリイが首つり自殺をしようとしていたところだった。実は核心の事件は既に警察の手によって偶然解決されていた。
・本件は「赤髪組合」で説明した世に言う「赤毛トリック」を用いた話である。プロット自体は赤髪組合事件と全く同様と言って良いが、事の進行を非常に早くして読者に考える暇も与えずに解決へ向かうことによって「赤髪組合」の二番煎じの印象を防いだのだと思われる。同様のトリックである「三人ガリデブ」は着想そのものが非常に突飛であり、事件解決のストーリーがサスペンス的でもあるためこのような印象は受けない。
グロリア・スコット号 The Gloria Scott
発表年 | 1893年4月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 20歳 |
主要登場人物 | ヴィクタァ・トリヴァ、トリヴァ父、ジョン・H・ワトソン |
物語の視点 | ワトソンによる記述 ただし、物語の大半はホームズの独白の形 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」5→4 |
・数あるホームズ譚のなかでも最も有名な一篇の一つ。また、ホームズ曰く「最初の事件」。物語に出てくるホームズ大学時代の唯一の友人の父から言われた「あんたは実在、架空の全ての探偵を凌ぐ探偵だからあんたはこれからこれで身を立てなさい」という言葉がホームズを探偵業に就かせるきっかけになった。なお、本作で起きる核心の事件はホームズが解決した事件では無い。
・ワトソンに意味の分からないメモ書きを見せたホームズは、そのメモ書きが自分が手掛けた最初の事件で依頼人の父をみただけで死に追いやったものだと語った。ホームズは若いころの「最初の事件」を語りだす。その物語は、友人の父が、以前横領で逮捕されオーストラリアへ流刑になる際に乗り込んだ囚人船で起きた反乱と、その生存者たちの間で後に起きた恩讐の物語だった。
・ホームズは依頼人の父から促されてその過去を鑑定させられた。それが上述の言葉となったのだが、この推理もホームズのアブダクションを応用した推理として良く引用される。特に「J・A」の頭文字の者と深い関係に有ったが、今は忘れようとしている、と言って相手を失神させてしまう。この「J・A」が物語の核心へ繋がっていくあたりは本編の白眉たる部分である。また冒頭の暗号文はいわゆるスキップ・コードと呼ばれる現在では大変に稚拙なもの。ただ、瞥見しただけでその内容まで完全に読み取ってしまったホームズはやはり探偵としての才能があったのだろう。
マスグレーヴ家の儀式 The Musgrave Ritual
発表年 | 1893年5月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 25歳 |
主要登場人物 | レジノウド・マスグレーヴ、ブラントン、レーチェル・ハウェルズ、ジョン・H・ワトソン |
物語の視点 | ワトソンによる記述 ただし、物語の大半はホームズの独白の形 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」6→5 |
・本作も前作である「グロリア・スコット号」に続いて若き頃のホームズ回顧譚であり、且つ「グロリア・スコット号」と並んで最も有名な作の一つである。ホームズ曰く探偵業を初めて三番目の事件。本作も物語のほとんどがホームズの独白の形となっている。なおこの話が語られるきっかけとなったホームズの部屋の散乱状態を描いたシーンは有名。特にヴィクトリア女王の意である「V・R」をピストルの弾痕で描く描写は有名で、グラナダTV版でも忠実に再現された。
・ホームズの部屋を片付けている最中に奇妙なものを見つけた二人は、ホームズの若いころの事件を語ることになる。その物語はマスグレーヴ家に伝わる奇妙な言い伝えと儀式から、聡明にして野心のあった執事が真実に気づいて行動した事の顛末が語られるものだった。その真実とはスチュアート朝イングランド王チャールズ一世の清教徒革命による刑死と、それに伴う王冠の継承にかかる隠された重要な事実が隠されていたのだった。
・本作には致命的なトリックのミスがあることも有名。木の高さから得られる影から北>東>南>西と歩くと玄関がありその中に秘密が隠されているのだが、その中には西日が差しているとされている。西へ歩いたら玄関は東口に向いているわけで、夕陽が東向きの玄関へさすことはありえない。また、そもそも儀式に使われる大木が、この謎を残すことになったチャールズ一世の時代即ち17世紀前半から、全く木の高さに変化が無いという前提はおかしい。
ライゲートの大地主 The Reigate Squire
発表年 | 1893年6月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 33歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、老カニンガム、アレク・カニンガム、アクトン、ヘイタ大佐、フォレスタ |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」7→6 |
・本編はロンドンを離れて休暇中の二人が事件に巻き込まれる形で描かれる一篇。このような形は後に何回か登場する。また、原題が単行本化される際にドイルの手によってSquire→Suires→Puzzleと何回か題名が変わっている。本作の手紙の切れ端のパズルはドイルのお気に入りだったようで、後にストランド誌上で作者自身が選ぶ傑作のうちの一篇として本編を挙げている。
・過労がたたっていたホームズはワトソンの勧めでヘイタ大佐の用意したライゲートの屋敷へ静養にやってきた。ところがその近くのカニンガム家の御者のウィリアムズが鉄砲で撃たれて殺された。ウィリアムは手に奇妙な手紙の切れ端を持っていたが意味が分からない。ホームズはカニンガム家の住人の話と、近隣のアクトン家での事件を聞き推理し、犯人を陥れるために一通の手紙を書く際に内容をわざと間違え、カニンガム家の実地検分時にテーブルを倒す。皆が訳も分からずテーブルの処理をしている間にホームズは真犯人たちに締上げられていたのだった。ホームズは関係者全員を集めて事の真相を話すのだった。それは、わずかな手紙の切れ端から犯人を推定した理由と、アクトン家とカニンガム家の間にあった不動産の争い事だった。
・延原謙による新潮文庫版に日本語による手紙の図が掲載されている。原本ではシドニー・パジェットの手によって再現されている。
かたわ男 The Crooked Man
発表年 | 1893年7月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 35歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ナンシ・バークレイ、ヘンリー・ウッド、モリソン |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」8→7 |
・本作は物語に奇妙な動物が関わっていることと、事件にミスリードがあることが特徴的である。ホームズ譚にも犬は良く登場するが、これ以外にも黒ピーターなどの猛獣などが登場する話がある。また被害者の夫人が発する言葉が終始、話のミスリードとなっており、読者に真犯人を容易に分からせない工夫がなされている。これ以外にもインドから帰還した元軍人が関わる話は「四つの署名」など複数存在する。
・ジェームズ・バークレイ大佐が何者かに自宅で殺された。その場では夫人であるナンシーもおり、二人でカギをかけた部屋で口論をしている最中だった。女中たちは異常を知り何とか部屋へ入ろうとするが入れない。そのうち大声で夫人の「デビッド!」という言葉と共に大佐の断末魔の叫びが発せられて大佐は息絶えた。ナンシーが大佐と口論する直前に教会へ慈善事業に言っていた時に起きたことと、大佐の部屋の外に有った奇妙な足跡から、ホームズはある体が自由でない、奇妙な動物を連れた男に行き当たった。男から語られた事実は男の悲しむべき過去の物語だった。
・殺人事件と思わせておいて実は違う、というプロットは「唇の捩じれた男」など他にも複数ある。また「デビッド」という言葉に隠された謎は、日本人ではキリスト教徒でもない限りなかなか難しい謎と言える。
入院患者 The Resident Patient
発表年 | 1893年8月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 32歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、パーシ・トレヴェリヤン、ブレッシントン、ラナ |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」9→8 |
・本作は依頼人の雇い主の奇妙な行動や、依頼人の元に現れた謎のロシア人親子の行動など特筆すべき点として挙げられる。依頼人が雇い主に対して、奇妙な依頼だが高額の報酬を提示して巻き込む、というプロットは他にも何回か登場するもの。
・依頼人のパーシ・トレヴェリヤン博士は、ブレッシントンなる資産家から開業の代金を持つ代わりに自分を入院患者として扱い且つ出資者として売上の8割を出すように言われそれに従ってブレッシントンと同居生活を送っていた。自室への何者の侵入も許さないこの患者の部屋へ、ある日博士の元に患者として訪ねてきたロシア人親子が侵入した疑いがあった。それを察知したブレッシントンの異常な行動に途方にくれた博士はホームズの元に依頼に来る。ところがブレッシントンの行動にホームズが協力を拒否した。ホームズはすぐに再び協力を求めてくるはずだと言ったが、果たして翌日博士から至急の来援を要求する電報が来た。しかしそれはブレッシントンは自殺したという報だった。ホームズはの部屋の状況と階段の足跡から他殺であることと、犯人たちの素性を推理した。その日の夕方、過去に起きた銀行強盗事件がこの事件の発端であることがホームズの口から知らされる。
・シドニー・パジェットの挿絵やグラナダTVにも描かれているように、ホームズとワトソンが散歩中に仲良く腕を組んで歩くという姿が描写されている。これは決して同性愛的な表現ではなく、当時のイギリスでは男同士であっても、まっすぐにしっかりと歩くという意図で腕を組んで歩くというのが流行したらしい。グラナダTVのドラマはそれを忠実に再現するあたりがシャーロキアンの間でも納得される出来となっているのだろう。
ギリシャ語通訳 The Greek Interpreter
発表年 | 1893年9月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 34歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、マイクロフト・ホームズ、メラス、クラティディス兄妹 |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」10→9 |
・シャーロックの兄マイクロフトが初登場する記念すべき回。マイクロフトはシャーロック曰く遺伝によって自分よりも推理に関する能力が高く、自分よりもその方面だけでは向いているのだが、どうにも出不精のため探偵には向かないという人物。政府の財務関係の職についており、「ディオゲネス・クラブ」という風変わりな社交クラブに出入りしている。本編もその「ディオゲネス・クラブ」の友人からの紹介で事件が持ち込まれる。
・マイクロフトの出入りする「ディオゲネス・クラブ」の紹介でギリシャ語通訳をしているメラスから風変わりな相談を受けるホームズら。ある日急な依頼でメラスは外が見えない馬車で一軒の屋敷に連れていかれる。そこではけがをしており、顔面をテープだらけにされたギリシャ人の男がいた。依頼はその男に、財産の譲受を承諾させる内容の文書に署名させることをギリシャ語で説明することだったが、依頼人を不審に思ったメラスは会話に混ぜてこの男の素性を少しずつ聞き出そうとした。しかし、会話の途中で不意に女性が入室し、中断されてしまう。女性の応対から女性と男は兄妹では無いかとメラスは考えたが、依頼はここで終了となりメラスは場所の分からないところで馬車を降ろされてしまった。兄妹を不安に思うメラスに相談されたマイクロフトは本件について新聞広告を出したとのことだが、ホームズらが帰宅した際にマイクロフトからその広告に反応があったことを知らされる。メラスを連れて現場へ向かおうとしたが、メラスは連れ去られてしまった後だった。
・マイクロフトはこの後名前がときどき登場することになる。また「ブルース・パティントン設計書」では事件の持ち込みをマイクロフトが行うことになり、事件でも協力する。グラナダTVのテレビシリーズでは、マイクロフト演ずるチャールズ・グレイが登場する回はそれなりに好評だったようで、ジェレミー・ブレットの病状も思わしくなかったことから原作より多くの回で登場した。特に「マザランの宝石」(「三人ガリデブ」にて詳述)では、ほぼマイクロフトが事件全体を解決するほどの行動力を示した。
発表年 | 1893年10月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 35歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、パーシ・フェルプス、アニイ・ハリスン、ジョゼフ・ハリスン |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」11→10 |
・本作が発表されたのは1893年10月だが、この年はストランド・マガジンは10月号と11月号が合併号だったようで、11月に発表された作品は無い。「最後の事件」は12月の発表となる。本作は数少ないワトソンが持ち込んだ事件である。
・ワトソンの旧友であるパーシ・フェルプスは、勤務している外務省で海軍の条約に関する極秘文書を奇妙な状況で紛失してしまった。パーシや警察は当初小間使いが何らかの理由で持ち去ったのだと思っていたが、違うと分かると事の重大さに気づいて憔悴し自宅の一室で寝込んでしまうようになる。婚約していたアニイ・ハリスンが看護し、パーシが寝込んだ一室にパーシが来る前にいた兄ジョゼフも同居していた。前日に忍び込もうとした賊がいたことを聞いて、ホームズは状況を整理しパーシにロンドンに来るよう促す。またアニイにはパーシの部屋で留守番をするように依頼した。ホームズは翌朝、芝居がかった方法でパーシに紛失した文書を返却したのだった。
・本作はワトソンが「結婚直後の7月」と書いていることから、1889年に起きたとされる説が有力だが同時に起きたとされる「第二の汚点」事件などの関係から、発生年月の特定には諸説ある。特に「第二の汚点」事件はワトソンが年月まで詳細を明かせないとしていることから、多くの説が発生する原因となっている。
最後の事件 The Final Problem
発表年 | 1893年12月 |
掲載誌 | ストランド |
ホームズの年齢 | 37歳 |
主要登場人物 | ジョン・H・ワトソン、ジェームズ・モリアティ |
物語の視点 | ワトソンによる記述 |
単行本での掲載順 | 「シャーロック・ホームズの思い出」12→11 |
・本項冒頭に記述したように、ホームズ物の執筆に負担を感じていたドイルは、本作を以てホームズ譚の執筆を終了させた。また、ドイルの母への手紙で本連載が始まる前あたりにこの連載をホームズを殺すことによって終わらせる、という旨のことを書いていることが分かっている。1893年にドイルは妻と訪れたスイス・マイリンゲンと有名なライヘンバッハの滝を見て想像力を働かせた彼は「最後の事件」の着想を得、二度とホームズ物を書かなくても良いようにホームズをこの事件で退場させることによって、自身が本来書きたい歴史小説の執筆や医師業に専念するためにその思いを遂げたつもりだった。
・ワトソンの病室をほうほうの体で訪れるホームズ。追われているのだという。奥方が出かけているのを聞いたホームズは1週間ばかり大陸へ一緒に行かないかという。それは、ワトソンにとって最後のホームズとの旅行となる誘いだった。ホームズとワトソンは列車を途中下車したり途中で行先を変えたりしながら、スイスのライヘンバッハの滝付近のイギリス宿までたどり着いた。しかし、追手となるモリアーティ教授らは確実にホームズを追い詰めていた。滝観光へ出かけた二人から、ワトソンだけをうまい具合に宿へ呼び戻したモリアーティは、ライヘンバッハの滝の上で最後の対決をホームズへ挑んだ。誘い出されたと知ったワトソンは急ぎ滝上へ向かうが、ホームズの足跡は滝つぼの方へ消えていたのだった。全てを知ったワトソンはむなしくもホームズを大声で呼び続けるのだった。
・ストランド誌は本連載が終わったことによって2万人もの定期購読を解約されて社内的に大変な事態に陥り、経営首脳が大問題だと報道機関に語った。また一方でドイルは、読者から「自分が殺人を犯したとしてもこれほどの非難を浴びなかったに違いない」と言わしめるほどの大量の非難と冒涜を受けることになる。読者からも掲載誌からも再開を懇願され、喪章をつけて街を歩く読者まで現れてドイルはいささかに閉口した。
・本編終了後、ドイルは翌年からストランドにおいてジェラール准将シリーズという歴史小説物を主に連載して好評を得るもののホームズ物には及ばなかった。ホームズ終了から6年後の1899年に発生した第二次ボーア戦争へ、持ち前の愛国心から従軍を決意、年齢上兵役には付けなかったが任意の医師団に加入して翌年から現地で活動。7月に帰国後は国際的に高まるイギリスヘの非難を積極的に擁護しつつ同年の選挙戦で立候補した(ただしわざわざ野党の強力候補がいる地区で出馬して落選)。なおボーア戦争の擁護を多言語で小冊子を作るなどして大々的に行った功績からドイルはサー(男爵)の称号を得ることになる。良く勘違いされるが、ドイルが叙爵された理由はホームズ物の功績からではない。
翌年1901年、友人とノーフォークへ旅行に出かけたドイルは、その場でダートムーアに伝わる魔犬伝説を聞くことになる。これがドイルの想像力を働かせ、長い雌伏の時を経て新しいホームズ物へとつながっていくことになる。
・グラナダTVのテレビシリーズでは、本編が第二シリーズの最終回として放送された。撮影も実際にマイリンゲン村やライヘンバッハの滝で行われた。落下シーンでは知られている通り、第二シリーズまではデビッド・バークがワトソン役を演じ、第三シリーズからはエドワード・ハードウィックが演じている。バークが既に降板することを決めていたため、本作は第三シリーズを見越して両ワトソン役が一緒に撮影した。しかし、映像を見る限り本編では最後にバークがホームズの名を連呼する際に岩陰にあったモリアーティの杖とホームズの書簡を、ハードウィックが演じる際にはなぜか岩の上に置いてしまうというミスが有った。
その4へ続く